先ずは新年の挨拶、Happy New Year 、明けましておめでとうございます。
門下生の皆様の素晴らしい年になるよう心から祈念します。
昨年の暮れからLA、ロスに行っていた。
今回のエッセイは新年の挨拶とその物語である。
我が家では一年おきにアラバマとロスに家族全員がクリスマスの時に出来るだけ都合を付けて集合することになっている。
今年はLAの娘夫婦の家に全員集合となった。
いつもはクリスマス直前から約一週間の予定なのだが、今回は11日間の長い旅になった。
12月18日早朝5時出発である。
それも車でロスまで、片道三日間かけての旅である。勿論帰りは飛行機である。
ロスで仕事をしている息子ザックの車が、調子が悪くなってきたと、昨年の夏ごろニュースが入る。
そこで家人が自分の車を息子にクリスマスのプレゼントと言い出したのである。
私が慌てて「あの~、ですね~、ザックはもう大人ですから自分で何とかするのではないでしょうか?」と婉曲に家人さとす。
家人いくらか冷たい目線を向けて「エリカ、エミリーの二人の娘にはザックの倍以上の学費が掛かったのではないですか、それにエリカもエミリーも車をしょうちゅう事故って保険代もバカにならない位使いました。
ザックは事故一つも起こしませんでした。一度駐車違反のテケットだけです。二人の娘に比べると依怙贔屓です。車ぐらいどうって事ないでしょう、貴方、男でしょ!ケチケチしないの~」「お~う」と思わず漏れた。もの凄い気合いである。
しかし私も喰い下がったのである。
「あの~ですね~、我々はどうするんですか?・・・車一台で!?」
「交代で車を使いましょう、それに道場まで走ったらいいじゃないですか、何時も貴方が言っているじゃないですか、Just Sweat、気合を入れてきましょう」
「う~ん」と唸りながら、私がモゾモゾしながら何とか説得しようと考えていると、すかさず「もう決めたことですから、私一人で運転していきます」
「は~、一人でアラバマからロスまで、ですか?あの~どれ位かかるんですか?」
「三日間あれば大丈夫です。貴方、もしかして忘れているかも知れませんが、結婚したら、アメリカの各地だけでなく、世界中の都市、名所を見せてやる・・・といったセリフ、覚えていますか?」
「はあ~、そんなこと言ったようですね、・・・でも日本に三回ぐらい、ギリシャにもそれからハワイにも4~5回行きましたよね」
「貴方、ハワイはアメリカですよ」
「はい分かってますが、何となく外国のような気になりませんか?そうそうバハマにも3回ぐらい行きましたよね。バハマは確か外国ですよ」
・・・まったく落語みたいな会話になってしまった。
ここで家人が本当に一人で車をロスまで運転していったら家族全員の風当たりがハリケーンとなって私に襲ってくる。
男気を出して「君は私が守ります。二人で笑顔で旅をしましょう」となった。
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10月18日2015年、全日本選手権大会、素晴らしい快晴である。
会場にいつもより早く出る。
中央のマット、左右の端のマットで子供たちの熱戦が繰り広げられていた。
郷田師範も私と一緒に観戦する。今大会はロシアからも選手が出場した。
いつも海外に出て思うのは空手のレベルが上がっているといことである。
とかく日本の流派は閉鎖的な面が出る。
うちも然りである。海外の空手家は概ねオープンである。
自然と眼が肥えてくる。技や動きも他流派のいいところを抵抗なく取り入れる。
それでも日本の支部道場生そんなロシヤの相手を向こうにまわしてよく頑張った。
観戦していて感心した。
郷田師範もそろそろ他流派を招待してもいいのではないかと進言していた。
9月11日
いつ頃からだろうか、朝の目覚めが早くなった。
時々早朝の5時ごろに起きてしまうことがある。
郷田兄が「早寝早起きは3文の徳?」などと言っているが、ようするに我々はそれだけ歳を取ったということである。
それでも3文の徳かどうかわからないが、早起きは気持ちが良いというか、気が澄んだように感じられるのは確かである。特に晴れた日は清々しい。
まだ残暑が残っているが、朝夕の空気はなんとなく涼しく感じる。
ステラもハナも真夏の時より動きがシャープになっている。
朝の散歩スタートすると二匹とも私をどんどん引っ張って歩く。
9月12日 審査、講習会のためサンフランシスコに出発である。
サンホゼの支部も出席する。毎年の行事になっている。
斎藤先生も福西先生も良い生徒を持っている。
指導しながら一緒に汗を流すのは気合が入るし、気持ちがいい。 続きを読む
アラバマの夏は気合を入れないと暑さに負けてしまう。
この書き出し、今までなんかいも使ってきたが、今回もやはりこう書き出すよりほかにない様である。それほど暑いのである。
ワールド大山空手の総本部は自慢ではないがエアーコンディションが無い。
この事も何回も書いている。2階のロッカールームにはついている。
冷房設備が無いことは以前にも何回も書いているのでみんな知っている事と思う。
最初に行ったように自慢している訳では決してない。
真夏のエッセイは同じような書き出しなる。
どこかの奇特な富豪が「師範お金が余ってしょうがないのでエアーコンディション買わせて下さい・・・」など言ってくることを期待している訳でもない。ホント。
7月に入って俄然気温が上がった。毎日猛暑が続く。
夏に咲く百日紅の花も激しい陽の光に首をうな垂れている。
しかし私は頑張っている。気合を入れてディープサウスの灼熱の太陽をはね返している。そこでサマーキャンプ稽古日誌である。
7月14日火曜日
今日の稽古は基本その三の型、四方の型から、その型の中の技を使っての組手であった。三人で組んでやる稽古は、息をつかせない激しい動きになる。
当然汗が溢れるように出る。道場が汗でプールになるのではと心配になるほどである。
最初にアラバマの夏を経験した時、道場の裏にプールがあって、プールには水ではなくビールだったらな~、飛び込んで腹いっぱい飲めるんだがなぁ~…などと馬鹿みたいな想像をした事がある。酔っぱらってエッセイを書いてる訳ではない。念のため。
稽古が終わった時、ちょうど日本からマサ先生、SFから斉藤先生が無事に到着した。
直に4~5人の黒帯連中と近くのピザ屋に行く。ビールの時間である。
一日で最もエキサイテング?!な瞬間である。いつ見ても黄金色のビールは飽きない。
馴染のウエイターが大きなバケツぐらいのビッチャー{picher}になみなみと注いだビールをソロソロともってくる。
全員で息を殺しながら、こぼすなよ~、こぼすな~と祈っている。
無事テーブルに冷えたビールが置かれる。自然と顔がほころびる。
真っ白に霜のかかったグラスに慎重に次ぐ。ごくりと思わず生唾が出る。
オスの掛け声も気合が入る。「ウクン、ウクン」と咽の音を立てながら飲む。
最初の味はなぜか甘い感じがする。ビールが身体の中に散ってしまう。
すぐにビールの味を確かめるように、またコップを手にする。
「ウグン、ウグン」とまた喉の音をたてながら飲む。
こんどはビールがすぅーっと胃の淵まで届く、そこでバワーンと広がる。
チョットにがみのホップの味がする。あぁ~俺は生きている。値千金である。
激しい稽古、汗をバッチリ流した後だからビールが最高なのである。
6月9日早朝3時10分に起床。
早朝と言うより真夜中と言った方が当たっているようだ。
昨晩家人に「静かに忍者のように出発をしなさい。私を起さない様に、分かりましたね」もちろん返事は「オス」である。
小型のスーツケースも、着替えも全部準備は出来ている。
もちろん忍びの術はトウの昔にマスターしている。
先生カールが時間通リ迎えにくる。
二人して無言の内に星空を仰いで「うーん」と呟き、その後自然と笑みが漏れた。
空港までの道程、車一台とも擦れ違わなかった。新記録である。
アトランタまでは予定通りであった。とこらがアトランタからLAまでの便が遅れた。LAでの乗り継ぎ時間は1時間しかない。既に40分遅れていた。アトランタのツトム師範に電話を入れる。「オイ、起きろ!朝だよ、分かるか?便が遅れているんだぁ、日本の直井先生に電話して、もしかしたLAでの便に乗り遅れてしまうかも・・・」 続きを読む
3月18日
早朝、久し振りに朝焼けを見る。予定通りカールが迎えに来る。
寒い冬の間、街中ですれ違う人、なんとなく目線がふさぎがちである。
今日は快晴である。散歩に出る人が胸を張って歩いているのが見える。
一挙に春が訪れた。
木蓮の薄紫の花が8分咲である。我が家のしだれ桜もほんの少し、咲き出した。
まだ3分咲ぐらいであるが、うすい赤みかかった白い花、気持が温かくなる。
さぁー日本の春季講習会、審査会である。気合が入る。
昔から指導や演武でアチコチと道着を持って跳び回っている。
時々カラテ家や門下生だけではなく、カラテに関係ではない人にも良く聞かれる。
「最高師範はいつもどのエヤ―ラインを使っているのですか?」
「はい、だいたいデルタ航空です」決まって次の質問がくる。 続きを読む
厳寒である。深南部にもシベリヤから寒波が襲来である。
いつもはアラバマのちょっと上テネシー辺りで寒波は止まるのだが、今回はフロリダの方まで下りてくると言う。学校も休みとなった。
昨日{2月24日}の夜から、TVのどのチャンネルも天気予報ばかりである。
家の前の道も、表の道路もところどころ凍ってしまうと、いそがしく警報を報じている。
そこで稽古も休みにした。予報では今朝の9時ごろから雪となる筈であった。
今午後の3時になるが外は雨と霙が降っているだけである。
相変わらずTVではキャスターがアチコチと走り回りながら雪を探している様である。
残念ながらまだ、ここホームウッドの街には雪は降ってこない。
ここ深南部アラバマでは、雪が降るニュースになると大騒ぎになる。
なんか地球最後の日みたいな感じである。
道所を閉めたので時間が出来た。もったいないのでエッセイを書くことにした。
家の2階、一部屋を私の書斎にしている。
外はまだ雪になっていない。静寂の中、雨の音だけが聞える。
考えがアチコチに飛ぶ。人間の幸福不幸、喜び悲しみ、笑いに涙、・・・。
幸福や喜びは個人的、相対的な世界である。
その人にとって一番の喜びは、きっとその人しか分からないのかも知れない。
思うに一つだけ自信を持って言える事は、生涯の友と出会えたことはその人に大きな幸福をもたらし、その人の人生を豊かにしてくれることである。
私は多くの友に恵まれた。
なかでも郷田勇三と荒井力男の二人は生涯の友である。
本当に私は幸運な男だと自分で自惚れている。
今日は力男の話をする。
私は中学時代から悪ガキだった。いつもツッパッテいた。
力男と知り合ったのは修徳高校に入学したばかりの1年生の春だった。
トイレの前の廊下で力男と眼があった。
力男は私よりも身体が大きく、顔も男らしいマスクである。
いつも目を三角四角にしていた私には力男の眼線が気に障った。
「オイ!なにガン飛ばしてるんだー、この野郎」と、いきなり私は詰めより力男の襟首を掴んで便所の中に連れて行った。
力男が「キミー、キミー話せばわかる・・・」と繰り返し頭のてっぺんから声を出した。
私も拍子抜けして手を離した。それ以来力男は私の生涯の友になった。
私が16歳、力男も同じ歳であった。かれこれ56年間の付き合いになる。
生涯の友力男と出会えたこと、力男と数えきれない位の楽しい思い出を味わえたこと、そしてその思い出はときとして私に力をくれたり、落ち込んだ時に癒してくれて勇気を与えてくれた。言葉に表せない位に素晴らしい気持にさせてくれる。
そんな思い出を力男は私に溢れるほど残してくれた。
後列右から8番目が力男、さて私はどこにいるのか?
中学時代からサッカーをやっていたので修徳高校に入学してサッカー部に入った。
どう言う経緯か忘れたが、すぐ力男も入れた。
そのころの修徳高校のサッカー部のレベルはあまり高くなかった。
一年生の私は三年生のキャプテンの目にとまり、すぐレギラ―になった。
ポジションはホワードセンター{ストライカー}である。
サッカーでの思い出に、そのころサッカーの強豪校と言われた開成高校と対戦して2対1で勝った。右足のスライデング キックで1点入れたがグランドにガラスの欠片があり左ひざの上を結構深く切った。その傷がまだ残っている。
3年生の時、6月だと思う、東京都高校サッカー大会{正確ではないかもしれない}に出場にする。
いつもは“出ると負け”である。ところがその時は何故か勝ち進んでいった。
確かではないが、ベスト16校に入って、とうと夏休みになった。
夏休み皆どこかに行く予定があったようだ。
ところが勝ち進んで行くのでみんな夏の計画が駄目になると「ぶーぶー」言ってきた。でも負ける訳にはいかない。
最後は教育大付属高校だったと思う、2対1ぐらいで負けた。
負けてみんな喜んだ不思議なクラブである。
記憶はあやふやだが、大会中に三鷹で都立鷺宮高校と対戦した時、力男が試合中に相手の選手とぶつかって、倒れてた。相手も倒れて動かなかった。
そばにいくと力男の履いている赤いストッキングが真っ黒になっていた。
そうーと触ると出血して赤い色が黒に変わっていたのである。複雑骨折であった。
近くの病院に救急車で運ばれる。試合は12対3か4で我々が勝った。
その時私は一人で6点入れた、この事は良く覚えている。
ちなみにあの頃のサッカーのルールは今の様に簡単に選手を変える事が出来なかった。
三鷹のその病院に力男は結局一ヶ月以上入院することになった。
その病院で手術もした。折れた骨にピンを入れて接続する手術、何故か力男の身体に麻酔が効かずそのまま手術をした。凄い根性を持っていた。
その後右足を出して鉄の足だといって自慢していた。
私と2~3の友人は学校にいかず毎日力男の病院に通った。ときどき学校から先生が見舞いにくる。力男の病室は2階であった。
先生が来たときは、いそいで病室の窓から逃げてそのまま屋根に忍者のようにうずくまっていた。
サッカーの練習が冬になるとグランドに霜が降り、ぬかってしまいボールを蹴らずに基礎体力のトレーニングをした。
ときどきラクビーをした。力男がボールを持って走る。
みんなでタックルをする、それでも力男は2~3人身体に背負って走っていた。
みんな呆れて見ていた。フーフー言いながら「オレの名前は力男だぞぅ―」と言って笑っていた。凄い馬鹿力であった。
あの頃修徳高校は野球部が強かった。
なんとか甲子園に出場する様に学校側も力を入れていたように思う。
サッカー部は余りかまってもらえなかった。予算も何時もほんの少しだけだった。
色々な部の予算を決める生徒会{勿論最終的な決定ではなかった}。
その会議の進行や決定権で生徒会長の権限が大きかった。
力男が「オレが生徒会長に立候補するからお前たちが票を集めろよ」
3年生の時のクラスは運動部が殆どであった。力男は運動部みんなに人気があった。
運動部の連中が各クラスをまわって力男に投票するよう働きかけた。
働きかけたと言うより半部以上は強制的に命令したようでもある。
結果は力男が当選した。荒井力男生徒会長になった。
それまでサッカー部は余り予算が取れなかったのだが、確かではないがあの頃のお金で四万円ぐらいの予算が力男のおかげで取れた。
すぐ学校の近くの鮨屋に行って腹いっぱい食べて飲んだ。
3年生の秋ごろから、ときどき大学受験のため力男の家で徹夜で勉強をした。
時々徹夜で勉強をする予定だったのだが飽がきてしまい、困った。
部屋は二階であったが窓から出て一階の屋根を伝わって外に飲みに行った。
帰りも屋根にのぼり窓から音を立てずに部屋に入った。二人とも忍者であった。
朝は遅くまでグーグー鼾をかいて寝ていた。
一度力男の親父さんに見つかってしまった。
怒られると思ったが、親父さんが「若い時はいいね~、でも自分のケツノの穴は自分で拭かなきゃだめだよ」と笑って諭してくれた。
素晴らしく豪快な人だった。
ちょっと話が脱線するが最近学校内やなにかの運動部の練習、強化合宿で体罰が大きな問題として取り上げられているようである。
あの頃、私の経験では毎日のように先生に授業中や、なにかの集まりの時に殴られた。
それも平手ではなくゲンコツで“ガッツン、ガッツン~“と殴られた。
頭がデコボコになっていた。何時も殴る先生は大体決まっていた。
その先生なんと隣の女子高校生と恋仲になり、その子がまだ在学中なのに結婚した。
手も速かったがそっちのほうも抜群に速かったようだぁ、なかなかの先生である。
先生としては失格、尊敬できなかったが、男としては・・・やっぱり駄目だ。
昔の学校教育は今より波乱万丈の様であった。
しかしあの先生どこかで再会しないかな~、でもあったとしても100歳は超えているかも、一発蹴ったらそれで人生終わってしまうかもしれないな~。
変な想像は止めよう過ぎ去った思い出として胸にしまっておこう。
話を力男に戻す。
二人して私の長男、博兄が卒業した立教大学に受験した。
みごと二人とも落ちた。しかし力男は日大に入学した。私は一浪である。
翌年明治に入学、そのころ学生界でダンスパーテーがはやっていた。
同クラスの二人と力男の4人で組んでダンスパーテーをやろうとなった。
新宿に場所を探した。
確かではないが三笠会館とか何とか言って、6~70人は入れる場所であった。
記憶はおぼろげである。
誰かがバンドを見つけてきた。
場所も決まった、バンドもそろった、パーテー券を作った。
値段をいくらにしたか忘れたが、結構いい値段だったと思う。
詰めて70人ぐらいの会場であったが、券を一人5~60枚作って売りに出た。
初めての経験であったが4人とも券がバンバン売れた。
友達の友の友達、そのまた友達の友達その繋がりが延々と続いたようであった。
ビキナーズ ラックである。ところが当日会場に入りきれない位人が集まってしまった。
それも80パーセント女性であった。
力男と「オイ、ハーレムに迷い込んだみたいだな~」と話し合った。
何故か、そのことははっきり覚えている。
男が少な過ぎる。女性はみんなそれなりに着飾っていた。
化粧もバッチリ、側に寄ると香水だがなんだか知らないがプンプン匂った。
5~60人の気合がはいった女性、お目当ては自分の好みに合った男性である。
私も力男もパーテー券を売りさばいた時の文句が「エリートの学生さんがワンサカ、ワンサカきますよ、きっと君の将来の素晴らしいボーイフレンド、もしかした未来のハズバンドがきっと見つかります」いい加減であった。
最初にパーテーを計画した時は赤字にならなければいいじゃない。
そんな気持だったと思う。何故か券が売れてしまったのである。
会場には我々の宣伝文句を信じた女性がビッシリと詰めっている。
それほど広くない会場に5~60人の女性、男性は20に居るかいないかであった。
音楽が始まって直に女性からクレームが出た。
「ダンスパーテーなのに踊る相手がいないのはどうして、貴方がカッコイイ男がワンサカ、ワンサカいると言ったからパーテー券を買ったのよ、なによ、ホームレスのような、なんかミスボラシイ学生だけじゃないの」
「・・・オイいそいでライトをもっと暗くしろ」と誰かが指示する。
私も力男も後の二人もダンスは上手くないし、それほど知らない。
そんな言い訳は通じない、力男も私も汗だくだくになって踊った。
まるで100人組手をやっている様なもの出る。
私は昔からデオロランド、や香水が苦手である。
あの匂い、鼻にツーンとくる胸が苦しくなる吐き気がする次に力が無くなる。
焼き肉や、焼き鳥、焼き魚などの匂いは逆に気合が入り元気が出る。
踊っていて「君の安い香水の匂いで、倒れそうなんです~・・・」なんて言ったら、殴られそうだった。
ダンスなんって感じではなく、まさにどこかのカラテ流派の世界大会であった。
なんとか無事に終え、頭を下げ続けながらみんなを無事に返した。
支払いを済ませて4人で分配した。
想像以上の売り上げであった。力男の知っている飲み屋に4人で祝杯をあげに行った。小さいに店だったので我々が貸し切った。ドンチャン騒ぎをして、あとの二人と別れた。なんとなく気持が大きくなって、力男と二人で温泉にいこうとなった。
何所にいくのか当てもないので東京駅のホームの売店で週刊誌を買った。
最後の方のページに甲府、夜叉神峠と言う温泉を紹介していた。
力男がここにしようと言った。ホテルも知らない、とうぜん予約もなし。
とにかく週刊誌を持って夜叉神峠に行った。
甲府の駅かどこの駅か忘れたが、タクシーを拾って温泉場に行った。
ホテルと言うより旅館が2軒か3軒しかなかった様に記憶している。
今は知らないが、あの頃はまだ余り知られてない何か寂しい所だった。
ガラガラであったので予約なしでも直に歓迎してくれた。
泊まった旅館の名前は勿論忘れたが結構大きな旅館であった。
先客が二組あった。一組の方は新婚さん、あとの方はT大学コンパで男の学生だけで14~5人と言っていた。案内された部屋は見晴らしが素晴らしく良かった。
ところが隣の部屋になんと新婚さんがいると宿の若い女将さんが言うではないか、力男も私も気を使って二人で隣の部屋に挨拶に行った。
私か力男か忘れたが、隣の部屋の新婚さんに「私達の事を気にせずに頑張ってください」と馬鹿みたいな励ましの言葉を言った。
若い新婚さん二人とも顔を真っ赤にしていた。
我々が部屋に戻ると、直に二人とも離れた別の部屋に変わっていった。
断っておく、バカみたいな話だが私も力男も野次馬的な気持からではなく、祝福する気持から出た挨拶だったのである。ホントである。
リッチな気分で温泉に入り若い女将さんを呼んでバカバカまた飲んだ。
飲んでる最中に先客のT大学コンパの連中のドンチャン騒ぎが耳に障りだした。
力男に「チョット黙らしてくる」と言うと、力男が「お前すぐ飲むとこれだから、オレ喧嘩はしないいだから、なんか始まってもオレ知らないよう」若い女将さんと二人で私の身体を掴まえに来たが二人とも簡単に投げてしまい、T大学生の部屋に行った。
襖をガラと開けて「うるせ~、もうちょっと静かにしろ~」と怒鳴りつける。
キャプテンかマネジャーらしき奴が立ち上がり「失礼しました」と簡単に謝ってきた。
気負っていただけに、なんか私が恥かいたような気分にさせられた。
力男と若い女将さんと明け方まで飲んだ。昼少し前に眼を覚ました。
開いていた部屋の窓から鶯の鳴き声が聞えた。
澄んだ鶯の声に感激した。
力男は昔から「オレは商人だぁ」と言っていた。
卒業してから家業の食肉業についてメキメキと実力を発揮した。
日本の畜産界は良く知らないが“山水会”と言う大きな畜産会の会長にも選ばれた。
私が明治の法学研究室に残ってピーピー言いながら勉強している時、ときどき気晴らしがしたくなる。力男に電話を入れる。
「オイ、力男お前の運命は俺に飯を食わしたり酒を飲ましたりするのが無常の喜びなんだろう、その事を忘れるなよ」
力男が「ホント、オレはお前に飯食わしたり酒飲ますのが、嬉しくて、・・・それが生甲斐~、ところでなに食うんだ~」いつもの返事が返ってくる。
力男はいつも私の我儘を笑って聞いていた。
昨年の12月3日で結婚35年?になる。
むかし郷田兄がこちらに来た時「この女の子どう思う」と言って家人を紹介した。
直に「逃がさないで結婚しろ、今まで見た中で一番いい~」
そこですぐ結婚することにした。
力男に言うと「日本に連れてきて結婚式をやれ」となった。
おふくろも喜んでいた
郷田兄と力男、力男の奥さんは冨二子さんと言う。
力男と冨士子さんは、なんと中学時代からのスィートハート{sweetheart}同級生である。
私達力男の友人はフーチャンと言って親しんでいる。
フーチャンは美人でいつも微笑を湛えて、優しく素晴らしい人である。
フーチャンの弟さんが目白の椿山荘に勤めているという。
丁度、極真の世界大会があった。結婚式は世界大会の後にやろう~となった。
家人の家庭ではアラバマで結婚式をやる。
その時にウエデグドレスを着る、だから日本での結婚式は駄目となった。
なんとか説得した。日本で12月3日にやり、アラバマでは12月15日に正式に?やるとなった。だから私は2度結婚式を挙げた。大変である。
力男やフーチャンに世話になった。
仲人は故総裁夫婦、来賓に故毛利会長、故柳川相談役、それに全国の支部長が出席してくれた。
支部長のほとんどが渋い喉を聞かせてくれて祝福してくれた。
家人の色直しに日本の着物を着せようと力男とフーチャンが提案してきた。
フーチャンの着物を着せた。
フーチャンの着物、結構喜んでいた
帯を締める時ワイフは絞殺されるのではないかと悲鳴を上げた。冗談である。
7~8年前に家族みんな、エリカの旦那もつれて日本に旅行に言った時、みんなで力男の家に食事に招待された。テ―ブルに御馳走が溢れるように並んだ。
とてもとても楽しかった、うれしかった。
ワールド大山空手になって正道会館と5対5の試合が合った時。
ウイリー、ギャリー、ブライアン、ホゼ、チャックを連れて来日した時食事をどうするかで頭を痛めた。すぐ力男のレストランにいく事に決めた。
どの選手も大男である。食うのも半端じゃない。力男が趣味でやっていた焼き肉屋、名前を“ホルモン力”と言った。
空港から真すぐに力男の店に言った。
「みんな好きなものをガンガンバクバク食え、帰りには力男がみんなにコズカイ10万ぐらいくれる様だ」と言うと大男が「オゥ―」と歓声を嗅げた。
力男は「おまえね~チョット勘弁してくれよ」悲鳴を上げていた。
それでも力男が嬉しそうに笑って皆の世話をしていた。
みんなで腹いっぱい食べて飲んだ。とにかく力男は何時も私の側にいてくれた。
正道会館との対戦は代々木であった。当日私と三浦師範との演武を、力男が大会が無事終わった後パーテーで「お前の演武が一番良かった」と言ってくれた。
力男が自分の事の様に「お前が演武する時オレなんか胃が痛くなったよ、もし三浦君に棒で頭殴られたらどうしようかと、もうー、ハラハラしどうしだったよ、でも試合よりお前たちの演武が一番良かったように見えた」目を細めながら言っていた。
来日する楽しみに力男をとの再会がる。
力男が「お前や台湾のキョウさん{名前はたしかではないが、食肉業界の人らしい}が何時もオレに刺激をくれるんだ。お前と逢うと何時も気合がはいる」
私が「そうか、オイ今度オレ小説書こうと思っているんだ、そこでその話を映画にしようと思っているんだ~」
力男が全部私の話を聞かずに途中で「オレそんな金ないよう」と遮った。
「オイ、刺激になるんだろう、映画の金は2~3億ぐらいだから、もっと刺激になる」「刺激になり過ぎて心臓に悪い、お金ありません」二人で爆笑した。
昨年3月に来日した時、「Take A Chance 」の第3カットを見せた。
「大山、オマエ、本当に映画作ったのか!」と感心していた。
「まだ完成してないけど、上手く言ったら日本で試写会やる。お前と一緒にタキシ―ド着てレッドカーペット歩こう」
力男が「いいねぇー、いいねぇー」と言って目を細めていた。
フーチャン、娘のさくら子チャン、力男、楽しかった
全て行事が終わって、日本を離陸する時に成田から力男に電話を入れた。
力男は肺癌に侵されていた。
「また6月にくるから頑張れよ!」と言って電話を切った。悲しかった。
昨年の6月支部長合宿が終わった後、郷田兄と二人で力男の家に見舞いに行った。
起きて話をするのが辛そうであった。僅かな時間むかし話をして力男を笑わした。
話の途中、力男がトイレにたった時、フーチャンが「パパ{力男}が笑ったのは久し振り」だと言っていた。涙が出そうになったが我慢した。
玄関で別れるとき力男を抱いた。痩せていた身体だったが温かった。
それが力男との最後の別れになった。
昨年の8月12日郷田兄から「荒井さんが亡くなった」と電話がはいる。
フーチャンに電話を入れる。
「力男の身体は亡くなったけれど、力男の心も声も、思い出もなくならないよ・・・頑張って下さい、なにもお手伝いできなくて御免なさい」
フーチャンと娘のサクラコちゃんが「パパが話している途中にスーと、息を静かにひきとったの」説明してくれた。
しばらく何もする気にならなかった。家人や息子ザック、エミリー、エリカ、旦那のケンが心配して気を使ってくれた。
年が明けた今も朝の散歩で、ときどき力男と話をする。
「寒い、だから如何したんだ、大山、寒く感じる事は生きているんだよ」
「分かったよ、気合いを入れて歩くよ」
「なに~、雨が降っている。いいじゃないか、恵みの雨と言うし、昔どこかのサムライも春雨じゃー濡れて行こうー、なんて言っていたんじゃないか?」
「力男、まだ春じゃないよ、でも分かったよ」
「明日は晴れるかもしれないよ、だから不平や、泣きを入れるな。大山、お前が映画の中で言ってるだろう。生きている事はチャンスなんだと。頑張れよ」
「力男、今すぐには行けないが、いずれ俺もお前の側に行く。もう少し待っていてくれ、まだやる事が結構たくさん残っているんだ。それまで我慢してくれ。美味い店でも探しておけよ。また一緒に飲んで語り明かそう」
朝の散歩、厳寒のなか小道の両脇に水仙やタンポポの花が見られる。
健気に頑張って咲いている。
とくにタンポポの鮮明な黄色の花は力強い命を感じさせてくれる。
生きている事は素晴らしい事なのだ。
命がある事は自分にチャレンジしなくてはいけないのだ。
力男ありがとうまだまだ頑張るよ。
合掌
11月2日やっと時差がとれた。昨日からチョット冷え込んだ。
ノースの方では初雪が降ったとニュースがあった。
今日は暖が戻ってきた。
朝の散歩、日射しも柔らかく身体を包んでくれる。
それとない僅かな風が林を抜ける。
黄ばんだ木々の葉が踊るように、さわさわと音を奏でる。平穏である。
やはり住み慣れた街に戻ってると身体も気持も落ち着く。
今度の旅は何時もよりちょっと長かった。
今年の夏に私の親友が亡くなった。
急に周りを見つめ直すようになった。兄弟や親しい友人に会いたくなった。
しばらくニューヨークの茂兄{総主}にも会っていなかった。
家人と話して8月の中旬に時間をつくって会いに行った。
短い時間だったが一緒に酒を飲むことが出来た。
身体に気を付けて「まだまだ頑張ってくれ」と言って別れた。
ニューヨークからの帰り道、ハワイの兄貴、博にも暫らく会っていないので,
全日本選手権の帰り道、ハワイに寄る話を機内で家人とする。
今回の旅はチョット長くなるが、みんなが元気なうちに会っておこうと決めた。
先晩から急に秋らしくなった。
朝の散歩肌に冷気がしみる。身体も心もピリと締まる。いい感じである。
何時も言っている様に季節があることは毎日の生活に節目と言うかケジメを付けてくれる。身体も心もフレッシュな気持ちにさせてくれる。
ステラもハナも乾いた朝の冷気に気合をもらっている様である。
今日、10月4日土曜日である。
夏の朝は早く明けるが初秋の朝は明けるのがいくらか遅い。
しかし大気は新鮮である。早朝5時半ごろからベットの中で起きようかそれとももう少し寝ようか迷う。外はまだ薄暗い。
6時近く軽い気合いを入れて起きる。
裏庭に出るとステラとハナが身体を寄せてくる。
犬は条件なしに愛情を表現する。可愛いものである。
この素直な、無垢の態度、どこかの空手の先生達に見習わしたい。
「師範、僕は犬じゃありません、冗談じゃありません・・・」
「君~勿論それは分かっております。私はですね、ただ素直さという面だけの事を言ってるだけです・・・」こんな会話まで想像してしまった。
また脱線した。なんか話がオカシクなったので私の変な想像はここで止める。