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国際大山空手道連盟 WORLD OYAMA KARATE ORGANIZATION

第22話 百人組手ホントにやるんですか?

5月の末ごろから6月の中旬までここバーミングハムの街には泰山木{マグノイヤ}の花がアッチコチで咲く。
朝の散歩の中、泰山木の白い大きな花が、風に揺られて甘い香りを、それとなく、はこんでくる。自然の香りはシャネル5などの香水よりも素晴らしい。
もっとも、シャネル5の香りなど全く私は知らないし、縁が無い。私見である。シャネル5は関係ない。カラテの話、ワンダフル空手第22話である。
何とか全日本選手権が終わった。
多くの人から「師範、感激しました」とか「良かったです・・・」等と慰めてもらっているのか、それとも褒めてもらっているのかわからない言葉を貰った。
そんな言葉をもらう度になんとなくくすぐられているような感じを禁じえなかった。今回は百人組手である。
その記念すべき日は9月の始めであったように思う。
しかし、仔細は霧の中である。
何とか思い出そうとしてこの2~3週間苦労した。
記憶や思い出の中にもいろいろあって、何時までも鮮明に思い出せることや、時間とともに内容が曖昧になっていく記憶がある。
記憶の輪郭が曖昧になるのは何故かと考えたが、答えは出なかった。
ただ言えることはその記憶に自分の気合いが向かなかったという事と、情熱と言うか、パッションを持てなかったことが関係しているのか、と思った。
何か回りくどい様な話になったが、ようするに百人組手に挑戦したが、そこには溢れる様な気合、情熱が無かったことが原因で思い出すことに苦労している。
しかし私の自叙伝、ワンダフル空手を書き続けるのにはなんとか思い出して書き留めなければいけない事である。
悶々としている日が続く。
そこで、ときどき私の秘書役なってくれるアトランタのツトム師範に電話を入れる。
「オイ、俺の百人組手の事知ってるか?」
「オス、よく知ってます」以外にも、自信のある声が返ってくる。
「昔の雑誌、極真会の現代カラテマガジン月刊誌に載っていたのだが、その雑誌が見付らないんだぁよ、お前探せるか?」
「オス、簡単に探せます」
「エッ、簡単に探せるのか、どうやって?」
「オス、大山泰彦百人組手とヤフーに打てば出てきます」
「なに~、なんで俺の事がそんなに簡単に出てくるんだよ、誰がそんな事許したんだよ」
「は~、最高師範、今は21世紀で御座います」
と言う訳で、道場の屋根裏やガレージの中、昔の箱をほじくり返して現代カラテマガジンを探していたのが、パソコンでツトム君の指示に従って打つと、ななんと、なんと本当に出て来たのである。
何日も苦労しながら探しまくっていた自分の無知さにあきれる。
俺は時代からの残されてしまったのだろうか?真剣に考えた。
便利になったと思うが、なんとなくプライバシーがなくなるんじゃないのかな~・・・とも思った。
・・・まあいいか、IT革命に反抗しても私に勝てるわけがない。
しかし凄い世の中になったと本当に感じた。
と言うわけで、私の百人組手である。

 


現代カラテマガジン1972年11月号を読みながら、記憶の細い糸をたぐっていたら、ポツンポツンと私の百人組手の日、その日の前後の情景と言うか状況が浮んできた。
前回のワンダフル空手第21話で話した様に、先ずは、ある日の館長室での私と館長の会話である。正確ではないが結構当たっている様な気がする。
いつものように頭に手拭を巻いて、口を一門字に結んで深々と館長が椅子に座っている。
私が「館長、本当に自分が百人組手やるんですか?・・・金村、磯部他の黒帯も実力がついてきています。彼等の方が良いんじゃないですか?」
「うーん、いや、金村や磯部は絵にならない。今は、君がやらないと駄目です。もう決めた事だから、頑張ってやりなさい」
「でも今の自分には、無理な気がするのですが・・・」
「君ねー、やる前からそんな事ではいけないよ、後進の為にも頑張りなさい」
「オス、そうですか、後輩の為、うーん、分かりました」
こんな会話が有ったような気がする。
館長はあの時、目をいくらか細めて微笑しながら話をしていたようである。
その微笑の中に「この役目は君しかいないんだ」と言っている様に感じた。
と同時に、館長は既にあの時点で、私が百人組手を達成できない事を分かっているんではないかとも感じた。
金村や磯部を選ばずに私に命じて来たのは、君の方が名前も売れている。
百人組手の評判を高めるためには、君が挑戦すると言う筋書きが必要なんだ。
・・・館長との会話の中で私はそう感じた。
館長は極真カラテ、その名前の中に他流派が真似できない想像を超える荒行、百人組手がある・・・と、武道界に示したかったのではないかと思った。
極真カラテをさらに飛躍、発展させ、極真のイメージを高める為・・・。
館長のそのアイデアに私はピッタリと嵌まったのである。
私の役割は自ら百人組手に挑戦すると言う事で、成し遂げる、成し遂げないは重要ではないのである。
・・・もちろん館長が直接に私にその考えを話してくれた訳ではない。
ただ私はそう読んだのである。百人組手の挑戦は極真カラテ飛躍の為に、自分託された責務である、となんとなく思った。

 

・・・しかしこの読みは、あくまでも私の予感、想像で、確信ではなかった。
ところが当日会館に出て自分の考えが当たっていたと確信した。
会館の一階ロビーに、普段余り見かけない沢山の人を見てピーンときた。
時間がきて、二階の道場に出ると正面にテーブルが置かれて、館長の横に故梶原一騎氏が座っていた。現代カラテを読むと梶原一騎の実弟の故真樹氏もいたようである。私の記憶には梶原一騎がいた様な気がしたが、真樹は思い出せなかった。真樹も作家であった。
あの頃日本の出版界で跳ぶ鳥を落とす勢いの、劇画作家・梶原一騎が来ているのである。巨人の星、あしたのジョー、空手バカ一代・・・など、老若男女の心つかんだ数多くの名作を残している。
その超忙しい梶原一騎がわざわざ私の百人組手を見にきているのである。
余談になるが梶原一騎とはいろいろと思い出がある。
それとカメラマンの土戸さんが来ていた。土戸も現代カラテマガジンを読んで思い出した。
土戸は優しい人柄で私と親しくしていたように思う。
雑誌を読みながら彼との思い出もけっこう思い出してきた。
土戸は全日本や何か会館の公式の行事に出てきて写真を撮っていた。
土戸が来ていることは、私の百人組手が外部の関係者にも公式の極真会館の行事として知らされていることである。
梶原一騎は後に劇画作家だけでなく、地上最強のカラテ、四角いジャングル等多くの映画もプロデュースした。

 

話が横道に逸れるようなので元に戻す。
当日私はそれほどの緊張感もなかったが、周りの人が私よりも緊張していたように思う。百人組手の宣伝が効いていたのである。

 

私の相手になる黒帯、添野義二、三浦、岸、佐藤勝昭、大石代悟、磯部、鈴木浩平、ハワード・コリンズ、東谷巧、その他そうそうたるメンバーである。
あの頃珍しかった、映像用のカメラが道場内にセットされて、カメラマンが緊張して用意していた。
なんか道場の雰囲気がまったく違っていた。
皆が緊張しているようすを見て、やっぱり私の読みは当たっていたと感じた。
「館長、やっぱりそうですか、派手に舞台ができましたね~。分かりました。頑張ります。どこまでこなせるか分かりませんが、やるだけやります」
・・・こんな気持であった。

 

始る前に館長のスピーチがあった。
「・・・手を抜くな、一発で倒したら昇段を与える・・」正確ではないがこんなない様であった。
現代カラテマガジンを読むとやはり同じ様な話をしていたと出ていた。
私の記憶では、最初の相手が添野だった。
添野は余り帯研に顔を出していなかったが、私の百人組手の為にわざわざ館長から呼ばれたようである。
添野は美浦の右の下段、岸の後ろ蹴り、勝昭の左の回し蹴り、右の逆突・・・等のように注意しなければいけない得意技が有る様には見えなかったが、城西の虎、と言われている男だけあって実力は持っていた。
「ハジメ」の声で、前にガンガン出てきた。突いて蹴って混戦になった。
途中掴んで投げにも出てきた。拍子なんてあったものじゃなかった。

 

 

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その後まさに全日本チャンピオンクラスの黒帯、三浦、岸、勝昭、大石代悟、東谷、コリンズ、がドンドン来た。
夢中だったが、10人行く前に息が上がってフラフラしていたように思う。
確か30人をこなした時に、道着を取り変えたようだ。
30人超えた頃から私は人間サンドバックのようになっていたと思う。

 

 

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40人か50人目か知らないが、相手が佐藤勝昭になった、勝昭が右の前蹴りをワザと外したように見えた。館長が突然立ち上がり、指を勝昭に指しながら「何をやっとるのか!倒してしまえ!・・・」凄い剣幕で怒鳴った。
私は勝昭が前蹴りを外したのも良く覚えている。
勝昭は身体に似合わずとても優しい奴だった。
人情もろく人の世話や、後輩の指導も丁寧だった。
脱線した、話を戻す。
あの時点で気はある程度まだ確りしていたように思うが、身体がどこかに飛んで行ってしまった様に感じていた。
自分の身体が自分の身体でない様な感じになっていた。
ただ気はある程度未だ残っていた様である。
だから、勝昭が前蹴りを外したのも、館長の剣幕も立ちあがって怒鳴った事も良く覚えている。
私は館長の怒鳴り声を聞いた後、勝昭に微笑を返したように記憶している。
何人目か忘れたが、勝昭だけでなく他の黒帯連中も館長の目線を気にしながら、私に大きなダメージを与えないように苦労して技を出していたように感じた。
みんな「ヤァー、ヤァー、エイー」と気合だけは大きくだし、頭、肩を振りながら、さも隙を窺うような動き見せ、私の周りをまわっていたようである。

 

それとときどき添野の声が聞えた。
私を励ましてくれるのではなく、私の状態を他の黒帯に「アッ、もう意識がもうろうとしている・・・」とか何とか、解説をしていた。
不思議と添野の言葉が記憶に残っている。
私の記憶では64人と思ったのだが、雑誌を読むと、61人で終わっていた。最後は館長が止めてくれた様である。
61人まで何とかもったので、館長の顔もつぶれずに済んだようである。
梶原、真樹もさすが極真カラテ、と感じてくれてたようである。
百人組手が終わった後、同じ号の現代カラテマガジンの最後の方に、真樹、土戸、三浦の感想と言うか談話が載っていた。
「史上最激の百人組手」と書かれている。派手な賛辞の言葉に照れてしまう。
4~5日に経ってから館長室で呼ばれた。「キミ~、よく頑張ったよ、アメリカ行って頑張りなさい」こんな言葉を貰った。

 

余談になるが、この稿を書きながら私の後任に就任した三浦の事を思い出した。アラバマで三浦が全日本チャンピオンになった知らせを受けた時、涙が出た。嬉しかった。
その後、三浦の百人組手達成のニュースがきた。
涙は出なかったが、さすがサムライ三浦と思った。
俺の目に狂いはなかった。そう思った。

 

百人組手が終わって、まだ私の身体が元に戻っていない内にアメリカ行きが決まった。9月中旬だった。

 

健康第一 オス。

 

 

PS、映画の完成が秒読みになりました。Youtubeの「take a chance new movie2015」をクリックして毎日10回は見ること。

コメント (3) | 2015/07/30

ワンダフル空手

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“第22話 百人組手ホントにやるんですか?”へのコメント (3)

  1. 押忍、投稿させて頂きます。
    昔NYの本部道場に一ヶ月の内弟子体験をさせてもらいました。暑いNYの夏、CAから行くにはちょっと体力的に厳しかったのを覚えています。昼の稽古が終わり内弟子寮長だった坂高師範が作ってくださった豆腐のあんかけをだらだらと一人でキッチンで食べていると、「おお今日はあんかけか」といいながら総主が入ってきました。一気に緊張し立ち上がって盛り付けようとしたら「いいから座って食べろ」といってくださいました。その後はすっかり目が覚め背筋をぴんと伸ばして緊張していました。なかなか話すことが思い浮かばずにいると”How’s Sensei John? He is very hot guy and short temper. Very good guy though”と会話を始めてくださいました。その後ずっと会話は英語で進みました。その間、自分は押忍しか言えませんでした。

    その時に総主が “Saiko Shihan was the first one did 100 men Kumite” と話してくださいました。「おお、そうなのかぁと、フルコンで読んだことあったけど初めてだったのかぁ。総主は最高師範のことを最高師範と呼ぶんだぁ」と思いながらOsuと返事をしていました。そのあと、食事を終えた総主は、「うまかったぞ」とおっしゃって出て行かれました。準備されたは坂高師範だったのですが、それを言う暇がありませんでした。

    from フクニシ(2015/07/31)
  2. 泰彦師範の100人組み手の写真では、正座され後ろから活を入れられている写真が一番印象に残っています。100人組み手の過酷さを一番表していると当時思いました。
    同門で後に医師になった後輩が、体に極端な打撲を受けると、それが血栓になり血管を通り腎臓に行き重篤な腎障害を起す事が有ると言ってました。正に命掛けの荒行です。

    from ミット鈴木(2015/08/03)
  3. 押忍。 今まで、100人組手を達成された方々の、対戦相手を見ますと、泰彦師範と対戦された方々が、最もレベルが高く、全日本チャンピオンクラスの方が、何人かいらっしゃいますね。 すごい事です。 真樹師範が、泰彦師範の組手を見て、極真史上、最も技が切れるのを、この目で確認したと言っておりました。 泰彦師範の全盛期の動き、技を見てみたいと、ずっと思っておりました。

    from 佐藤勝弘(2015/08/05)

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