私は母と二人でアパートに住んでいました。
私のしょげた姿を見ながら兄貴は相変わらず笑っていましたが、私を送ってくれました。
アパートに着くと、私の腫れた顔を見て母がビックリしたようです。
「どうしたの、茂?」
兄貴は相変わらず笑いながら、お袋に
「どの位の実力があるかちょっと試しただけだよ・・・」
そんな感じのことを、説明していました。
私は二人の会話を無視して布団の中に潜り込みました。
電気の消えた後、お袋の寝息を聞きながら、悔し涙で枕を濡らしながら、
「よーし、空手の稽古をしよう。必ず兄貴と春山を倒してやる」
そう心に誓いました。
その日から私は毎日空手のことを考えるようになりました。
電車に乗っているときやバスに揺られているとき、正拳や前蹴り、どうしたら組手でその技が出せるのか、何で中足に足の指がかえらないのか。
授業中先生の話を聞いているふりをしながら自分の技や先輩の技を思い出していました。
何故だか分かりませんが、小さい頃からじっと座って本を読む事とか、何か考えるという事とかが苦手だったようです。
いつも自分の身体を動かしていないと安心できないような、不思議な感じでした。
身体を動かすことにより自分を表現できる、自分の存在をアピールできる、何となくそう思っていました。
正式に道場に入門し、稽古を始めて3〜4ヶ月過ぎる頃、私の身体が激しい稽古に慣れてきました。
体が慣れると稽古が面白くなってくる。
一つ一つの技の特徴が何となく身体で分かって来た感じです。
基本の技を一応全部こなせるようになってきたと思いました。うぬぼれていました。
でも、何か新しい自分に生まれ変わったような、エキサイテイングな気持ちでした。
そんなある日、いつもの様に稽古が終わっての帰り道、兄貴が
「オイそばを食って行こう」と言いました。
その晩の兄貴はいつもと違い、重いと言うか真剣な雰囲気でした。
我々は、バラック マーケットの中、今にも崩れ落ちそうな蕎麦屋に入りました。
蕎麦は、「かけ蕎麦」です。確か15円だったとおぼろげに覚えています。
何故、“かけ蕎麦“とはっきり覚えているのかというと、一番安いのがかけ蕎麦だったからです。
経済的な余裕のない我々は蕎麦屋に入るとメニューを見ずに「かけ蕎麦ください」と注文していました。
それでも私にとっては美味しい、最高の蕎麦でした。
「そろそろ、カラテが面白くなってきたか?」
と兄貴が聞いてきました。
ちょっと大げさに言えば、兄貴と春山を倒す、そんな復讐心からスタートした稽古ですが、カラテそのものの魅力に引き付けられていました。
心の奥にあるそんな気持ちを隠して、ぶっきらぼうに
「まーな、少しだけ」
と答えました。
私の照れ隠しをした返事を聞くと、兄貴はしばらく私の心を見透かすように黙って私の顔を見つめていました。
突然、
「オイ泰彦、強くなりたいか?」
と聞いてきました。
突然の兄貴の真剣な顔つきに私も緊張しました。
私は当たり前だろう、という顔つきで黙って頷きました。
兄貴も「ウーン」と頷きました。
かけ蕎麦のどんぶりが二人の前に香ばしい香りを放ちながら並びました。
私はいつもお腹を空かしていました。
空いた腹に蕎麦の香りが沁みてきます。
私はすぐに薬味と七味をたっぷりと入れてフーフー言いながら食べ始めました。
兄貴はそんな私を見つめているだけで箸に手を付けていませんでした。
たぶん二口ぐらい食べたとき、兄貴が「オイ」と声をかけてきました、
仕方なく兄貴の顔を見ると、睨む様な目線で、
「春山は強いだろう。お前は春山より強くなりたいだろう。オイ、泰彦、これからは春山だけを見て稽古しろ。いいか、いつも春山の事だけを考えろ、春山が突くとき、蹴るとき、受けるとき、その全ての動きを見て稽古しろ」
兄貴の眼は燃えているようでした。
正直に言うと兄貴に言われる前に私はいつも道場で春山と兄貴の動きを他の誰よりも真剣な目で追っていました。
でもあの晩、兄貴の言葉は私に空手の世界に真剣に入ることを促したように思います。
沢山の思い出がありました。その多くの思い出は時間がたつと自然に薄れて消えていきました。
しかし蕎麦を食べながら突然話し始めた、あの晩の兄貴の言葉は今でも鮮明に思い出されます。
「泰彦、春山が1000本突いたら、お前は2000本突け。春山が1000本蹴ったら、お前は2000本蹴れ、そうすればきっとお前は春山を倒せる。いいか、春山より強くなりたかったら春山の倍、突いて蹴って受けろ。追いかけろ、きっと追いつく、倍の倍、稽古しろ、そうすればきっと春山を倒せる」
兄貴は私に言うというよりも自分に言い聞かせるようにそう言うと、勝手に頷きながら蕎麦をガツガツ食べ始めました。
私は急に胸が熱くなりなりました。
なんだか知らない不思議な力が心の底から湧いてきました。雷に打たれた様な感じです。
私も兄貴に負けないようにガツガツと食べました。
蕎麦の味と希望が入り混じっていました。
”俺は、春山を倒せる“
”やってやる“
そんな気合が「オイショー」と激しい音を立てて湧いてきました。
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とても楽しく読ませて頂きました。是非、続きをお願い致します。
from 高木 竜(2009/11/26)