だいぶご無沙汰してしまった。季節が変わり年も変わってしまった。
一月二十日、冬の曇り空はなぜか気分が落ちる。朝の散歩それでも気合を入れてステラとハナを連れて外に出る。雑木林の中、くすんだ緑色の野草が、枯葉で覆われている。
両脇の木々も、すっかり裸になって、細い枝を風に震わしている。
みんな、じっと我慢して、何かに耐えいているように見える。
静寂の世界である。だがそこに力を感じる。
ワンダフル空手だいぶご無沙汰してしまった。
いつも心の中にあるのだが雑用に流されてしまった。
正直に言うと雑用に流されたことは確かだが、本当は怠慢によることもある。
しかし昨年の晩秋は旅が多かった。10月、11月と続けて日本への旅、12月は家人とLAにナント11日間の旅であった。
これは新記録である。まさに強化合宿の毎日であった。
暮れから正月の賑やかな気分が取れ始めた。そろそろ気合を入れて稽古に指導に専念しなくてはいけない。と言う訳でワンダフル空手第23話である。
私のアメリカ行きが決まったと同時に磯部のブラジル行も決まった。
極真総本部での私の役目も一段落した。後任のチーフインストラクターには三浦が決まり、岸、東谷、コリンズ、など一騎当千の黒帯が若獅子寮で生活していた。
帯研も常に20人近く出席していた。
いつもみんな熱のこもった稽古で激しく汗を流していた。
時として総当たりする、激しい組手の稽古もあったが、みんな助け合い和気あいあいとした雰囲気が道場内に溢れていた。
あの頃の極真総本部は盤石な指導体制が出来上がっていた。
私が居なくとも全く心配なかった。私の仕事は終わったのである。
このさきは極真カラテの看板を背負って海外に出て、自分の可能性にチャレンジする時期が来たのである。既に30歳を超えていた。
今おいてチャンスはもう来ないと思った。
アメリカ、何故か昔からアメリカとは不思議な縁があった。
なんか大昔の話のようで気が引けるが、その縁を我慢して聞いてもらいたい。
記憶はおぼろげだが、それなりの輪郭をまだ残している。
私が、幼稚園の時3~4歳だったと思う。
何かの縁で家にアメリカの将校が来た。何のために来たのか分からないが、その人がお土産に、キャンデーを持ってきた。BABY RUTHとかいう名前で、ピーナツとキャラメルが入っていついるチョコレートであった。
あの時代、おやつは、乾パンかサツマイモ、それも時々ジャガイモになるときもあった。
乾パンやイモのおやつが有るだけでもラッキーな時代である。
殆ど何もないときの日のほうが多かった。
まだ東京の街のあっちこっちに戦後の傷跡が残っている、食糧難の時代である。
今の人はきっと想像もつかないと思うが、そういう時代が有ったのである。
何時もひもじい思いをしていた。そんな毎日に、突然チョコレートに包んだキャラメルとピーナツである。一口食べたとき、身体がとろける様に感じた。
こんな美味しいお菓子があるなんて信じられなかった。
幼稚園児の頭の中に、アメリカという国が夢のような国になった。
アメリカに行けば信じられないような、お菓子がたくさんある。
行きたい。行ってみたいと思った。
余談だが、今もそのチョコレート時々買って冷凍庫に入れ、凍らして、コチンコチンにしてそれをかじる。少しずつチョレートとキャラメル、ピーナツが混じった味が口に広がる。この歳になってもエンジョイしている。
でも昔の味はほんの僅かしか感じないが、何となく思い出させてくれる。
BABYRUTHのチョコレートが海外への憧れのような種を植えた様である。
チョコレートの影響か知らないが、中学、高校生の時から時々映画を見に行った。
高校生の頃、悪ガキと一緒に学校をサバって、3本立てや2本立ての映画を見に行った。
5~6時間続けて映画を見ると、頭がくらくらする。
映画はアクションものであり、ほとんど西部劇だったように思う。
単純にアメリカに行ってカーボーイになるかなどとバカな空想もした。
なんとなくではあるが海の向こう、アメリカに何か自分の夢があるように思った。
そんな夢が、知らず知らずのうちに心の底に芽生えてきた。
時々一人で羽田国際空港{成田はまだ畑だった}にジェット機の発着を見に行った。
屋上に上がり、デッキから轟音を立てながら離陸するジェット機を見守りながら、どこの国にいくなかなぁ~とか、空の彼方に豆粒のように見えた機体がだんだんと目の前に広がり空の半分を占めてしまうほどの大きさになり、タッチダウンする。
どこの国からきたのかな~と、いろいろ胸を躍らせながら空想をした。
いつか俺も海外に出る。きっとそんな日が来ると思った。
いざアメリカ行きが決まったとき、エキサイトはしたが一つ心配事があった。
それはおふくろの事であった。おふくろと二人きりの生活であった。
何となくおふくろの事が心配であったが、おふくろが心配しないで自分の可能性を試すチャンス、羽ばたきなさいと言ってくれた。その言葉に勇気付けられて決心した。
郷田師範と黒帯裏の会の連中が、私と磯部の歓送会を開いてくれることになった。
いつもは近くの居酒屋か、焼肉屋ときどき養老の滝での飲み会であったが、歓送会は豪華な白雲閣という料亭兼結婚式場であった。みんな金がないのに奮発してくれた。
西池袋駅から立教大学まで、表通りを行くと大学の正門の斜向かいにその白雲閣がある。
昨年全日本選手権のため来日したときにホテルの周りを軽くジョギングしたら、白雲閣が昔のままの姿であった。懐かしかった。
その時の写真がピンボケだが残っている。
これがその時の貴重な写真である。みんな若かった。
前列向かって左から、佐藤ヨシミチ、小沢、磯部、私、郷田、加藤重夫、斉藤。二列目磯部の後ろいるのが、高橋{マサ先生の親父}藤平{大沢昇}添野、鈴木浩平、後ろに山崎、一番後ろの列に、神村、増田、その後ろは松島、大石、ジャック、張、佐藤タツオ{勝昭の兄貴}コリンズ、三浦、岸、須藤、あとは思い出せない。}
力男と関根はもう逝ってしまったが、あのとき歓送会をしてくれた。
なぜよく思い出せるかと言うと、銀座でバカバカ飲んで、その後その店の女の子を数人連れてまた飲みに出たのである。
どこだが知らないクラブで、生のバンドの演奏に乗って、美女数人と明け方まで躍った。こんなに美女達に囲まれた事がなかったのでよく覚えている。
力男と関根が私の事をワッショイ、ワッショイしてくれたので、その晩はモテモテであった。モテない男が突然チヤホヤされると、忘れられない思い出になる訳である。
「もしかして、俺は今風に言う、イケメンなのか・・・」冗談である。
そんなこと思う訳ありません。「アッ!マサ、直井、斉藤、いま笑ったな!」
出発当日お袋だけでなく、長男博兄の家族もみんな来てくれた。故総裁、壮年部の福田さんもその他多くの友人、後輩達が羽田に来てくれた。その時の写真である。
故総裁とおふくろと私
甥の隆一、努、私、博兄
右から郷田兄、三浦、山崎、私、後ろに佐藤勝昭、岸、鈴木、磯部、添野
あの頃はまだ海外に出る人は少なく、スチワーデスもすべてアメリカ人当然、機内アナウンスも当然英語であった。
今のように直行便がなくアンカレッジ経由であった。
羽田から約7~8時間でアンカレッジに着き其処で確かではないが入国審査、給油したようである。忘れられないのはアンカレッジ空港のロビーに日本のうどん屋があった。
美味かった。アンカレッジからまたニューヨークまで約7~8時間の空の旅であった。
JF空港に誰か迎えに来てくれたのか正直に言うと忘れてしまった。
むかしの極真会の月刊誌、現代カラテの雑誌を読むと茂兄、その子供、忠さん{現中村忠誠道塾会長}、金村が迎えてくれたとあった。余談だが、あの頃は中村忠氏とはサンズケとチャンズケで呼び合っていた。そのままの表記で話を続ける。
その現代カラテの記事は私が書いたものなので、皆に迎えてもらったようだ。
NYには約2週間いて体をアメリカに馴染ませた。
茂兄や忠さんにいろいろとアドバイスをもらう。
最初に二人の道場の稽古に参加したとき、そのレベルの高さに驚いた。
これほど基本も、型も特に組手もレベルが高いとは想像もしていなかった。
しかし、良く考えてみるとそれは当然の事なのであった。
茂兄も忠さんもトップの空手の師範であったから、そんな二人の直接な指導を受けていれば当然生徒のレベルも上がるのは当たり前である。
ショックだったのは、茂兄の道場で最初に稽古を見たとき、茂兄の動きに驚かされた。
稽古を見るまでは、昔一緒に稽古した時のレベルと変わらないと勝手に想像をしていた。
ところが、実際に見たとき、基本の正確さ、力強い突き受け、蹴りの流れ、拍子の緩急の型は思わず唸らせ、重厚さを感じさせた。
特にダイナミックで華麗な組手は、思わず身体に電流が走ったように感じた。
また門下生の質の高さに目を見張らされた。
身長が185センチ、80~100キロ近いウエイト持った連中がガンガン突いて蹴るのである。一番感心させられたのが、「まいりました」の言葉がないことと、お互いに激しく動き殴り合っているのだが尊敬心が見られ、それなりにコントロールしていた。激しさの中に気高さがあった。見ていて「う~ん」と唸った。
こんなにアメリカの極真カラテが高度なレベルとは夢にも思わなかった。
あの時、昔の故総裁の言葉を思い出した。
故総裁が北米、南米の旅から帰ってきたとき、本部三階の会議室で私たち本部指導員と帯研の連中を前に、ブラジルでの出来事、成果を話してくれた。
まだ磯部が本部で働いているときで、ブラジルには行っていないときである。
そのころのブラジルの責任者が田中という日系のブラジル人であった。
カラテ家か言うより、商社のサラリーマンのようなタイプの人であった。
ちょうど世界的にカラテの熱が大きく広まる兆候を見せ始めた時期である。
あの頃よく海外から極真の支部長になりたい人が、極真総本部に来るわけである。
みんな、贈り物や、その他いろいろと持ってきて故総裁のご機嫌を取るのである。
田中さんもその一人であった。正確ではないが4~5日近くのホテルに宿泊して、おざなりの稽古に参加した。勿論組手はなしである。
その田中さん、晴れてブラジルの支部長に就任した。
その田中さんの要望かどうか忘れたが、南米の支部長会議をブラジルで開催することになったと、ちょっと曖昧だが、私の記憶にある。
故総裁の右に居るのが田中さんである
そこで故総裁がニューヨークに立ち寄り、忠さんと茂兄が同行したのである。
支部長会議の前か後か忘れたが、審査と講習会あったようである。
故総裁の隣には支部長になった田中さんが座っていた。
審査か講習会か確かではないが組手になった。
身体が大きいロシヤ系の白人の黒帯が4~5人いて相手になる人がいなかったようである。{私のこの辺の細かい記憶は確かではない}
ここからが故総裁の話である。ここははっきりと記憶に残っている。
故総裁が眼を輝かして、熱を待った言葉で「茂は組手に開眼したよ!」と言った。
その会議室にいた私も他の連中もその言葉に体が震える様にエキサイトした。
「茂がね、右手で相手の構えた手をかけて左の掌底で肩を押し崩し、相手の態勢を開かさせ、唸るような右の正拳を厚い胸板に叩きつけるんだ、相手が両手で胸を押さえながらそのまま崩れる様にして、倒れてしまうんだよ」
みんなで「オ~ス」と唸った。あの時、私の身体も熱くなったのを覚えている。
「きみね~隣に座っている、田中の膝が震えてテーブルがガタガタ動くんだよ~、次に出てくる奴も一発でノバしてしまうんだ、茂は開眼したね、う~ん」であった。
その興奮した記憶が、いま目の前でガンガン突いて蹴っている茂兄の組手を見て、蘇ってきた。エキサイトすると同時に不安と焦りのような感慨に浸った。
はたして、俺のカラテ、実力でこの国の奴に通じるのか心配になった。
余談だが、その田中さん総本部と会員登録の件で揉め、有名な言葉を残している。
「ハイ、逆さかにしても一銭も出来きませんよ・・・どうぞ、御自由にしてください」
と皆を前にして啖呵を切ったのである。
田中さん一見すると、何処にでもいる普通のおじさんように見えるが、なかなか頑固でしたたかな根性をしていた。これはあくまでも私個人の感想である。
話が脱線した。元に戻す。
とにかくアメリカの極真カラテのレベルの高さに唖然としたが、闘志も沸いてきた。
あのとき私の身体はまだ100人組手の後遺症が残っていた。
脇腹にもヒビが入っていて咳やくしゃみ、笑ったりすると痛さが身体を走った。
両脛も、腕も腫れて思い切った突きや蹴りが出せなかった。
時差や身体の疲れをとるだけに専念して汗を流した。
稽古しながらアメリカの極真カラテの雰囲気を身体に染み込ませた。
自分の身体がもとに戻ってくる頃、自然と気合も入ってきた。
ヨシ、兄貴に負けないようにもう一度、初心にかえって精進しようと思った。
それから数日後、いよいよアラバマに出発する時が来た。続く。
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押忍、今回のお話、非常に興味深いです。また、貴重な写真拝見させていただきました。続きを期待しております。
from TI(2016/01/27)昭和56年頃と思われますが、当時若獅子寮長で全日本で三位に入った為永隆氏と私が親交が有りました。
from ミット鈴木(2016/01/30)茂師範が全日本の為に来日され本部道場でサンドバック打ちをされ、それを見ていた為永隆氏が私に「茂師範の正拳打ちは凄い」と聞かされたことを思い出します。
茂師範の幼馴染の池袋山口先生の紹介で茂師範から
話を伺った事が有ります。その中で、新聞紙を使った拳の鍛え方、自分の顎に手を当てて顎を鍛える方法を教えて頂きました。特に「ショットガンは恐いが拳銃は恐くない」というお話は特に印象に残っています。
相手が拳銃を出して来た時の対応の仕方も教えて戴きました。
山口先生からはお母様の事も伺っています。
若獅子寮に手料理を差し入れされたりとても気遣いされる方とお話されていました。
最初の写真の最前列左側の佐藤善道氏とは私が19歳の頃に東京に出てきた時にお世話になった不動産屋の方の紹介で明治神宮で毎週日曜の早朝に拳法の稽古に通って居た時にそこにいらっしゃいました。
一度稽古の後喫茶店に誘って頂きました。
立教大学を出られ高校の英語の先生をされていたそうです。
自分は今から約46、7年前に三峯神社合宿時(当時私は9歳か10歳)泰彦先輩より夜の懇親会?の時に「お前、マイクやれ」と手でマイクの形を作り諸先輩方のお話を間近に聞かせて頂いた者です。泰彦先輩、磯部先輩には当時子供だった私に遊んで戴いた思い出が今でもはっきりと覚えております。茂先輩がお亡くなりになったと噂で聞いたのですが本当なのでしょうか?大変ショックです。ネットで検索してこのブログにたどりつきました。空手からは中学以降、遠のいておりましたが、56歳となった昨年秋より、横浜にある添野先生の道場に時間のある時にお世話になって、健康回復に向け再度活動を始めました。極真も色々とあったようですが私にとっては当時の諸先輩方の強烈なインパクトがいまだに脳裏に焼き付いております。(皆様、現役バリバリでしたから。。)泰彦先輩、遠いアメリカでの生活、どうかくれぐれもご自愛ください。おそらく泰彦先輩は私の事は覚えていらっしゃらないと思いますが、茂先輩の訃報を耳にしての突然のコメントお許し下さい。押忍。
from 山崎恭義(2016/02/16)