MY Brother 総主大山茂
私の兄、総主大山茂が逝ってしまった。
2月14日バレンタインデーの早朝、私の携帯が鳴った。
珍しい、電話に出ると茂兄の嫁さん、パトリシヤからであった。
電話の向こうで泣いていた。茂兄が亡くなった。暫く声が出なかった。
気持ちを落ち着かせて話し始める。
真夜中に呼吸困難に陥り、救急車で運ばれたそうである。
そのまま帰らぬ人となった。
簡単な葬儀を家族だけで済ました。
“大山茂総主を忍会“を3月4日金曜日に開いた。
世界の各地から問い合わせがあり、息子の徹盛りも、私もあわてて対処することになる。当日は起床4時半、朝一番の便で、アラバマからNYに行く。アラバマは水仙の花、木蓮の花が咲き乱れている季節だがNYは雪であった。
夜の6時から8時の予定を、5時から9時、4時間に延ばす。
息子徹盛りが会場に4時に着くと、外にはすでに列ができていた。
日本、ヨーロッパ、中東、カナダなど各国から花輪を送りたいと連絡がある。会場が花輪だけで埋ってしまう恐れがあり、気持ちだけを受け取り丁寧に断る。ところが花輪を断ったのだが、なぜか、当日どんどん花輪が届いた。
徹盛りの簡単な、思い出話と、私が2度ほど兄の人柄、思い出話をする。
20年、30年、40年以上の長い兄との師弟関係の人が集まり、小学生の同窓会のような雰囲気になった。
兄もみんなが昔話に花を咲かせているのを喜んでいるように感じた。
兄と最後にあったのは2年前{2014年}の夏であった。
力男が先に逝ってしまってから、いろいろ考えさせられた。
元気なうちにハワイの博兄とNYの茂兄の顔を見たいと、家人に話す。
家人も良いことだと賛成してくれた。まずNYの茂兄に会いに行こうとなった。
マンハッタンのホテルの近く、日本レストランに入った。
もと内弟子の坂高が付き添ってくれた。
久しぶりに見る兄は昔の面影がなかった。
顔も、身体も随分と衰弱しているように見えた。
それでも顔を見るなり「飲むか?」と言ってきた。
昔から兄は酒に強くなんでも飲むが、歳を取ってからは日本酒の熱燗が一番身体に合うようであった。
兄に熱燗を頼んで、私はビールを注文した。肴は餃子、枝豆を頼んだ。
この2~3年身体の調子が良くなかった。
とくに昨年の夏に、約7時間に及ぶ心臓の大きな手術をした。
結果は良好だっただが、医師はインフェックション{化膿}の可能性があると心配していた。手術の結果、暫くは良好であった。
しかし、残念ながら医師が懸念したインフェックションの兆候が出てきてしまった。また手術を繰り返すことになった。今度は4時間に及んだ。
それでも勝負強く兄は頑張った。普通の人ならあの時点で身体がもたなかっただろうと、医師が話していた。それが昨年の夏であった。
兄との思い出は無数にある。
その一つ一つが貴重であり、私の宝である。
世界大会での演武、全日本での演武、ヨーロッパ大会での演武、呼吸がぴったり合った時の無言の微笑。ちょっと乱れたときの苦笑。
講習会での号令、気合い、どんな時も、常に剛毅な表情見せていた。
道場や、会場に兄が一歩入るとたん気合がピーンと張り出す。
無言で、ゆっくりと中央に歩み出る。
門下生が緊張の色を見せて整列する。
“武は姿なり“という言葉がある。
私の兄ほど空手着や黒帯がぴったり決まって見える武道家を見たことがない。
風格と威厳、力強さが兄の身体から漂いあたりを圧倒してしまう。
稽古が始まる。門下生は全てを忘れて兄のカラテの世界に溶け込んで行く。
一心不乱に、突いて蹴り、受けるのである。
兄の叱咤が鋭くとぶ。兄が褒める。兄が勇気付ける。
その瞬間すべての門下生は空手道の真の世界に浸ることができたのである。
仕事も、学校も、家庭も、全て消えて、空手だけの世界に汗を流せたのである。兄の技、動き、気合いの声に無我の世界に導かれるのである。
兄が演じて見せる基本技、兄が演じる型、兄の激しく、容赦なく攻める組手、鋼鉄のような右の正拳が唸る。
時には嘘のように優しく柔らかくかわす、受ける組手を見せる。
どの稽古をとっても、門下生に勇気と、力、自信を植え付けた。
まさにそれは空手界で兄だけが見せた空手の世界であった。
兄は空手の種を世界中に植え付けた。
日本をはじめアジア、ヨーロッパ、北米、南米と旅をしながら空手の素晴らしさを世界中の人々にその種を植え付けたのである。
基本技を丁寧に優しく、厳しく指導し、型を見せ、演武を見せ、時には激しい組手で倒し、身体を張って植え付けたのである。
多くの空手家が兄の門をたたいて教えを乞うた。
世界、全日本、ヨーロッパ、そして全米チャンピオンなど数多くのチャンピオンを育てた。彼らに真の空手道を植え付けたのである。
現在、世界各地で多くの空手家が兄から指導を受けた空手道を指導しているのである。
私が、こうして現在も空手道の世界に生きていられるのは兄のおかげである。
無数にある思い出から、どうして私が空手道の世界に入ったか、その経緯を兄の冥福を祈りながら、ちょっと長くなるが話してみよう。
私の両親は小さいころ離婚した。一番末の息子であった私は、父親のところから母親のところに逃げてきた。母親との二人だけの生活が始まった。
母は私を育てるために、朝から晩まで働いていた。
働くのも一つの会社だけでなく、アルバイトもして生計を立てていた。
当然私を監督する時間がない。
4畳半の狭いアパートの部屋、TVなど勿論ない。ラジオだけである。
遊び盛りの少年は狭い部屋の中で宿題などするわけがない。
近所に遊びに出る。とくに生意気だった私はよく喧嘩をした。
自然と近くの不良仲間に入っていたのは至極当然の流れであった。
不良仲間と言うより悪ガキの集まり、と言ったほうが良いかも知れない。
ある日チョットしたきっかけから二人のチンピラと喧嘩した。
私は悪ガキだったが、相手は大人のチンピラ二人である。
一人がパチンコ屋の裏、自転車置き場に生意気だが心の底はまだ初心な少年の私を無理やり連れて行ったのである。心臓が飛び出すぐらいに恐かった。
もう一人は笑いながら道路で煙草をくわえて見ていた。
私の左肩を掴んでいたチンピラが見張っていた奴に声をかけたとき。
私は夢中で右のパンチをチンピラの左目の上に出した。
その一発でスローモーションのようにそのチンピラが倒れた。
見張っていた奴が、煙草をくわえていた口をあんぐりと開けて、一瞬信じられないよう顔を付を見せた。次に何か怒鳴りながら私に向って走ってきた。
倒れている自転車を飛び越えてきたところを右足で奴の金的を蹴り込んだ。
“ヒー”とか、“アイー”とか悲鳴を上げて私の前に崩れ落ちた。
私は無我夢中であった。足が縛られたように自由に動かなかったが、歯を食いしばって走って逃げた。
ところが、その事件を忘れたころに私宛に警察から呼び出しが来た。
喧嘩をしたチンピラが窃盗事件で捕まり警察で取り調べを受けた。
暇な刑事が一人の男の目の上にある傷に目をとめて「どうしたんだ、その傷は・・・?」とか何とか尋ねたようである。男が別の不良に殴られたと訴える。
暇な刑事が「そいつは誰だ?」となった。私の事である。
いろいろと調べて私を見つけた。呼び出しがアパートに来る。
茶封筒に私の名前、それも警察署から。驚いたこと心臓が破裂するようだった。急いで開ける。硬いお役所仕事の文章。わかる訳がないが、呼び出しであることは分かった。15歳の少年には恐怖心しか起きなかった。
急いで躊躇なく破り捨てた。時間が過ぎ1週間、2週間何の音沙汰もない。
ドキドキした心配も消えて、なにかの間違いだったと思うようになった。
ところが3週間目にまた、茶封筒が来たのである。
両足が金縛りにあったように硬くなる。恐る恐る開けると、直ぐ出頭せよとある。うらの荒川に行って、また破って捨てる。
それから暫くたってある晩、母親と二人食事が終わった後、ソロソロ寝る支度をしていると、ドアをコンコン叩く音、母親が開けるとそこに若い男と、中年の男が立っていた。無遠慮に部屋の中を覗き込む。4畳半のマチ箱のような部屋。何も隠す場所などありはしない。母親が気押されながら、「なんですか?」と尋ねるも。母親のその質問を無視するように部屋の中を検めて見つめ、ゆっくりと警察手帳を見せる。私の身体が凍ってしまった。
翌日警察署に出頭する。取調室はまさに映画に出てくるような狭い部屋。
落ち着かず座って待つ間、何か自分がこのまま得体の知れない監獄に連れて行かれてしまうのではないかと、恐怖心が身体を包む。
当たりまえである。15歳の少年、頭の中では男だと思っているのだが、その実、心の中はか細くはかない初心な少年である。
刑事が二人、話し始める。お宅の息子さん最近悪い連中と屯して居るので一度署に読んでお説教をしようとなったのです。刑事の話が終わったとたん母親が逆に怒って刑事にお説教をした。「息子は正当防衛です。相手は二人それに大人じゃないですか!刑事さんも随分と暇ですね!」凄かった。
私も気分がスーとした。その後、母親はすぐに茂兄に連絡する。
兄はそのときすでに黒帯を締めていた。
すぐに私を呼び出し。ラーメンと餃子を食べさせてくれた。外での食事など一年にあるかないかの生活である。嬉しかった。ラーメンがステーキに思えた。
兄はビールを飲みんがら空手の話を始めた。
いかに私が運動神経が発達しているか「カラテをやれ、面白いぞう、お前なら直ぐに黒帯を取れる。なに!飛び蹴り、簡単、お前なら、後ろに、右左の横に、斜めにだって飛んで蹴れるよ。なに試割、瓦、レンガ、そうだな~、2~3ヶ月でバンバン割れるようになるじゃないかな。うーん間違いないな。喧嘩、片手で、もしかした目を瞑っていても負けないだろうよ。嘘じゃないよ。ホントお前の事は俺が一番よく知っているから、請け負うよ。ホント面白いよ。俺なんかすぐに問題なくなるんじゃないかな。嘘じゃないよ。ちょっと時間が掛かるかも知れないが、冗談じゃない、ホントまじめな話」
兄の話は、世の中の事をまったく知らない、頭だけでっかくなって、自意識だけ膨らみすぎている少年には素晴らしく響いた。話を聞いているうちに自分が既に、黒帯に締めている気分になってしまった。
空想が膨らみ、想像が勝手に走り出す。俺は強いんだ、俺は黒帯なんだ、俺は飛び蹴りもどんな方角でもこなしてしまうんだ。
勝手に膨らんだ夢物語の中にいる私に、兄は最後の決め球を投げた。
「空手の稽古を始めたら、コズカイを50円やる」びっくりした。
目の前の兄が神様みたいに見えた。
確かあの頃は、10円で、コッペパンが買えた。
15円出すと、イミテーションのピーナツバターを入れてくれる。20円出すとコロッケを挟んでくれた。
35円出すとポテトだけのコロッケでなく。本物のグランド・ビーフが入っている、メンチカツが挟まるのであった。
ファイヴ・スターのフレンチレストランなんか及びもつかない、この世のものと思えない位美味しい味が想像しただけで、一瞬のうちに口に広がるのである。
10円でラムネが買えたと思った。
世界は自分のためにある。そう思える一瞬であった。
兄の話の先に閻魔大王が待っていて、その周りには赤鬼、青鬼が口を開けて待っているなどとは全く思えなかったのである。
道場に行く、マス大山館長が笑顔で迎えてくれた。
チョット不良かかったこの洟垂れ小僧は、幾らかはにかんで見せる。
悪ガキではなく、穢れの知らない子供の顔を見せる。
道場に入ったとたん、いっぺんに代わってしまうのであった。
誰からも教わった訳ではないのに生きる本能がそうさせたように思う。
なぜか最初の稽古は柔道着を着せられた。
稽古時間が約4時間などとは思いもしてなかった。
基本稽古だけで2時間である。基本が終わって僅か3~4分、廊下に出て、ちょろちょろ水が出る水道の蛇口に口を付けて飲む。
続行である。移動稽古、型、約束組手、自由組手と続く。
組手の時間になる最初に見て腰を抜かす。
顔面だろうが、金的だろうがお構いなく殴って蹴っている。
ここは屠殺場かと思った。まさか初日に組手などやらされる訳はないと、祈る。
無情にも立たされる。
目の前に坊主頭、顔中ニキビだらけの大きな男が立っている。
あとで私のライバルになる春山であった。
春山の身体から殺気のような不気味な気迫が私身体を縛り付ける。
ビンタを貰い、頭を蹴られ、腹を突かれて、何度も床板を舐めさせられる。
春山の後は兄に同じように殴られ、蹴られた。
鼻血が出ても、口の中を切って血が漏れてきても許してくれなかった。
10日以上も味噌汁も、温かいお茶も飲めなかった。それから私のカラテの世界が始まった。入門したときは、復讐だけを頭において稽古した。
道場に通い、激しい稽古に汗を流すうちに、幾らかまともな少年に変わっていたようである。
あれから、今日まで紆余曲折、長くて短いような修行の道を歩いてきた。
そして、今日の自分がある。
兄が導いてくれなかったら、果たしてカラテ道の素晴らしい世界を修行できたかどうか疑問である。
今こうして生涯の修行をカラテ道に捧げられるのも兄が私をカラテ道に導いてくれたからである。
人は皆仮面を持っている。宗教、政治、学門、経済、芸術、芸能、スポーツ、武道、それぞれの世界で高名な人ほどいろいろな仮面を持っている。
断っておく、あくまでも私個人の意見である。カラテ界などはその仮面がもろに見える。仮面も一つだけでなく、二つも三つも持っている人が多い。
むかし故毛利会長が食事の席で、誰かが「武道家は清い・・」とか何とか発言をした。その言葉が終わるや否やグラスを置いて故毛利会長が、笑いながら「君ね、それは違うよ。武道家は建前と本音をうまく使い分けるよ。武道家ほど経済に長けている人間はいないよ、表面を見てそのまま信じると火傷するよ」
同席していた、極真会館の故総裁、相談役、その他の関係者は驚きの表情を見せながら、襟を正した。
私は故毛利会長は洞察力の深い人だと、よけい尊敬をした。
兄には経済的なセンスはなく、組織作りのセンスも長けていない。
ただ空手道だけである。武道界、空手界を見渡しても兄のように純粋に空手だけを追い求めた人を私は知らない。
兄の稽古を受けた人なら、きっと忘れられないと思うが、厳しい稽古、激しい稽古が終わった後の兄は、まるで別人のように優しさと愛情を見せる。
その大きなギャップの差に、誰もが驚き、そしてよけいに兄を尊敬し慕う。
残念ながら現実の世界では組織、経済の面を無視しては生き残れられない。
私は、自分の身体が動く限り、兄が私に植え付けてくれたカラテの種を大きく育て太く強い幹に育てる。そしてその幹の下に力強い根を張り巡らしていく。これからも努力と精進を重ねていく。
私は知っている。兄が、きっとどこかで私の事を見守ってくれていることを。頑張る。気合いを入れる。感謝を忘れない。
ワールド大山カラテをこれからもどんどん広めていく。
茂兄ありがとう。ご苦労様でした。熱燗を飲みながら刺身をつまんで。
ゆっくり休んでください。オス。
合掌
« 極真 第11回全世界空手道選手権 観戦記 | 2016年春季講習会 »
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大山茂師範ほど強さ、気合い、勇ましさを見せて下さった方はおりません。
from 佐藤勝弘(2016/03/13)自分が一番憧れた師範でした。
世界最高師範に最も相応しい、偉大な師範です。
大山茂師範の真剣白刃取り、気合いの入った主審ぶり、数々のお姿が思い出されます。
本当に残念でなりません。
押忍。
ヤフーニュースで訃報を知り呆然としました。
from マツ(2016/03/15)真の武人、大山茂先生の御冥福を御祈り致します。
押忍 未熟ながら自分も総主に種を植え付けられた一人です。この種を大事に育てて大きくしていきたいと思います。
from TI(2016/03/16)大山 茂 師範ほど修練を積まれたお方でも、必ず死はやってくる。
改めてその事実を思い知らされた時
寂しさと哀しさで涙が止まりませんでした。
しかし
どんなに鍛えても、いずれ人は亡くなるのだけど
それは虚しいことではないんだと
だからこそ一生懸命生きていかなくてはいけないし
限りある時間の中で精一杯、頑張るからこそ人は輝く!
だから人生は命は素晴らしいのだと
大山 茂 師範の生き様を書籍などで少しだけ知り、
私はそんな風に感じました。
天国でも、どうかお元気で
from 五十嵐(2016/03/17)ありがとうございました!
押忍!
初めまして
from K.N.(2016/03/17)大山空手、応援してます
1990’sにアメリカシアトルにかつてあった支部でUS大山頑張ってました。
問い合わせってわけではないんですけど、宗主お亡くなりになってたんですね…
本当に残念でなりません。
私は今は空手をやっておりませんが、茂宗主は憧れの空手家だったので悔やまれます。
合掌
大山茂師範の真剣白刃取り。 迫力がありました。
from 佐藤勝弘(2016/03/17)大山茂師範を思う時、まず最初に白刃取りのお姿が思い浮かばれます。
大山茂師範のあとには誰一人、白刃取りの演武をしないのをみても、白刃取りがどんなに危険なのかよく分かります。
そのような演武を、大きな気合いで何度もなされた大山茂師範は偉大です。
自分は学生時代日本でUSA大山空手を修行させていただきました。
from たかやま(2016/03/19)これからも世界中特に日本で正しい空手が普及していくことを
願っております。自分も生涯空手続けようと思います。
大山茂先生のご冥福をお祈りいたします。押忍
茂先輩の御逝去に際し心より御冥福をお祈り申し上げます。US大山空手の今後のご発展ねがっております。合掌 押忍。
from 山崎恭義(2016/03/20)大山泰彦 最高師範
ご無沙汰しております。
大山茂総主のご逝去を心よりお悔やみ申し上げます。
極真会館当時、会館の2階でニューヨークから来られた総主に稽古を見て戴いたのが
私にとって、懐かしい思い出です。
全日本オープントーナメントで、分厚い、スライスしない原氷を
一つは、右手で、続いて、もう一つを左手で、一発で割られたのは、
驚愕でした。
あのような豪快な氷割りをするような人は、もう、出ないのではないでしょうか。
後輩にとっては、仰ぎ見るような存在でしたが、
お会いして言葉を交わしてみると、気さくで、度量の広い、
正に、真の“空手家”と呼ぶに相応しい凄い方でした。
今頃は、大山倍達総裁と、色々な話をされているのでしょうね。
押忍
千田 勝彦
from 千田 勝彦(2016/03/29)