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国際大山空手道連盟 WORLD OYAMA KARATE ORGANIZATION

開 眼

グローバルウォーミング(地球温暖化)か、何か知らないが、
今年の夏の暑さは全くどうしようもない激しさであった。
もしかして秋が来ないのではと真剣に思った。
ホント! ・・・・地球滅亡か?

 

ところが、神様は我々人類を忘れずにいた。

 

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8月の終わり頃になると、道場の裏のパーキング場に毎年赤とんぼが舞い始める。
道場はこの街、ホームウッドのダウンタウンにある。
周りには池もなければ、水溜りのような場所も無い。
それでも毎年8月の末になると、どこからともなく赤トンボが姿を見せる。

 

この赤トンボを見ると、自然に遠い昔が思い出されてくる。

 

無垢な(?)子供の頃、よくトンボや蝉を取りに行ったものである。
夏の遊びの楽しみは、麦藁帽子を頭にのせてアイスキャンデーをかじりながら、
虫を取りに行くことだった。
鬼ヤンマ、銀ヤンマ、シオカラトンボ、いろいろと飛んでいた。

 

私の子供の頃は、近所に空き地や野原があり、小さい池もあった。
ちょっと街のはじに行くと畑や田圃があり、細い小川もあった。

 

それでも東京である。

 

アスファルト、コンクリートの道路は表通りに僅かにあるだけだった。
後は土の道である。
雨などが降るとズボンが泥んこになる。

 

 

総ての時間が緩やかに、ゆっくりと流れていた。

 

懐かしい。

 

赤トンボ、秋を告げてくれるようだ、自然に感傷的になる。

 

 

 

私は自慢じゃないが音痴である。
でも歌は好きである。
人前でも平気で唄う。
が、伴奏が入ると駄目である。
だから私は独奏である。

 

カラオケでテレビの画面を見ながら唄うと、必ず字あまりか、先に終わってしまう。
だから私が唄うときはマイクだけである。

 

歌の中でも、唱歌、童謡が好きである。
でも殆どの名前も歌詞も覚えていない。
それでも「赤トンボ」だけは一番、二番まで唄える。
後は、リズムに合わして、ラララー、とかフウンーウフンー(?)とかである。

 

 

 

今日は「開眼」について話をしようと思ったが、
ちょっと赤トンボの話に脱線したようだ。

 

話を空手道にもどす。
一般的に言って、武道の世界は稽古の成果が見えにくい。
これは私の独断かもしれないが、特にカラテの世界は稽古をしても
“一体強くなったのか?”
がなかなか実感できない。

 

 

入門して最初の2−3ヶ月は、全く無知であった為総ての基本の技が新鮮に見え、
何か急速に実力がついてきたように錯覚しがちである。
だがこの時期を過ぎると、マンネリになり、一体自分が強くなっているのかが
分からなくなる。

 

 

理由はいろいろ考えられる。

 

殆どの人が最初に身についた技だけに囚われすぎるようだ。
組手になると、自然と自分が頼れる技を多用する。
特に回し蹴りを上段・下段・時々ミドルに出す。
基本の技はまだ沢山あるのにパンチと回し蹴りだけの組手になる。

 

 

私はチャンピオンを狙うとか黒帯を目指しているような門下生には、
先ず、一つの技を正確に身につけるように指導する。

 

この“正確に身に付ける”と言うことがなかなか分かっていないようだ。

 

個人差と稽古量にいくらかの違いがあるが、
基本の技を全部(突き、受け、一般的な手技、蹴り技)身につけるのは大体一年かかる。
但しここで言う「身につけた」とは基本の技の特徴を掴んだ、分かったという段階である。
ただそこまでである。深くはない。

 

だから見た目には、正拳、裏拳、前蹴り、回し蹴り、後ろ蹴り・・・に見える。
見えるのと実際の組み手にその技が使いこなせるのとでは、大きな隔たりがある。

 

よく、本当の稽古が始まるのは、帯(黒帯)を取ってからだと言われているが、
ある意味では的を射ている言葉である。

 

 

 

私が“正確に技を身につけた”と言うのは、“深く身につけた”と言うことである。

 

正拳や前蹴り、または回し蹴りなどを身に付けるときに、正確か、浅いか、何か癖がある技か、ではその人の組み手の幅、深さが違ってくる。
その技が“浅い”など何か癖をつけてしまうと、その技の応用が利かなくなってくる。
正確にこなせると、その技の基本的なこなしと、相手により応用、変化を付けることができる。

 

組手の実力が大いに違ってくる。

 

私は、強くなってきた門下生には
「一つの技を3つぐらいこなせるまで深く稽古しろ」と言う。

 

例えば回し蹴りを出すとき、背足、中足で相手の顔面を蹴れないといけない。
更に蹴り足の膝の角度、上体の使い分け、軸足の足首、膝の変化・・・などが相手により自然にこなせると、組手に深さが出てくる。

 

 

前にも断ったが、チャンピオンや黒帯を目指すなら稽古を深くすること。
徹することが大切である。

 

 

 

誤解してもらっては困るのは、何もプロのカラテ家になれと言うのではない。
週に2〜3回稽古をしても何年か続ければ黒帯にはなれる。
道場での稽古で汗を流すとき、徹して練ることである。
徹して練ると、稽古が終わっても、心の中・身体の中に意識する・しないに拘らず、
自分が今追いかけているカラテの技、動き等の種が植え付けられる。

 

長年空手の世界にいるといろいろな発見、と言うか
今まで見過ごして来た中に新しい事があることに気がつく。

 

 

「開眼」「悟る」といえば何か大げさに聞こえるが、それに近い感じである。

 

でも面白いことは、その瞬間「あっ分かった。こう使いこなすのか。」と気がついても、
続けていかないと「開眼」もすぐ消えてしまうことである。

 

 

 

何か話しが難しくなって来たように思うが、ここまできたらもう少し付き合ってもらう。
稽古して基本の技を身に付けていくと、その技が語りかけてくれるときが有る。
人それぞれ自分の拍子、リズムがある。
話しがまた脱線するようだが、宮本武蔵は五輪書でこの拍子を練ることが大切だ、と話している。

 

話を戻す。
“技が語りかけてくる”とは、技が、使いこなしている人に、
「この技は、この呼吸で、力と速さをこのように変化して使ってください」

 

・・・・こんな感じのことを語ってくれるのである。

 

面白いのは、この技が語りかけてくるの時は道場で汗を流しているときだけではないということである。
道を歩いているときに、前か来るオバチャンの歩く姿や、猫や犬の動きを見たときだったり。
テレビで何かスポーツ番組を見てるときや映画を見ているときだったり。
・・・数を挙げたらきりがないがとにかく我々の生活の中にあるということである。

 

稽古に徹すると、心、精神の中、身体の中にカラテの「開眼」への「種」が知らぬ間に植えつけられるのである。

 

殆どの人が気がつかないだけである。

 

このことは自信を持って総ての人にあるといえるのだが、
強い弱い、
鈍い速い、
運動神経が良い悪い
・・・・その人の才能、等に関係なく起こりうる。
前にも言ったように気が付いていないのである。

 

徹していないのである。

 

 

 

こういう話は空手の世界だけでなく、科学、医学・・・総ての世界にある話である。

 

数学者が音楽を聴いてるときに自分が追いかけている課題の答えが分かったとか。
医学者が、研究している問題のヒントを焼肉を頬張っているときに気が付き思わず食べ過ぎてしまったとか。

 

・・・オットト。また話が脱線しそうなので真面目に行きましょう。
埋もれていた才の芽が、”ふっ”と普段の生活の中で目を覚ます訳である。

 

カラテの技や動き、呼吸・・・を追いかけなくてはいけない。
いつも問題意識を心の底に植え付ける稽古でなくてはいけない。

 

 

 

昔、私が内弟子を取っていた頃、
「お前達、女は追いかけなくてもいいが自分のカラテはいつも追いかけないと、
本当の基本の技や動き、その呼吸には出会えないよ。」
と良く話した。

 

 

 

もう一つ大切なことは、自分のカラテに対して素直になることである。
意固地になると視野が狭くなる。
天狗になるなと言うことである。
気持ちをひらたく伸ばし、大きく拡げていないと自分で自分の才の芽を潰してしまう。

 

 

 

これからの話は私が体験した昔の話である。

 

今からウン年前、確か私が28歳の頃、故大山総裁の下で極真会本部のチーフインストラクターをしていたとき。

 

 

私の下に、三浦と岸がいた。
2人とも現在では自分の一派を立てている立派な空手家である。

 

その頃、極真会館本部にはいろいろな外国人が稽古に来ていた。
その中には、イスラエルの柔道家でギドンガタリ(正確ではないかもしれない)と言う黒帯がいた。
身長185センチ位、体重が100キロはある巨漢である。
組手になると、みんなギドンが大きすぎるので苦手としていた。
ところが岸が組手でギドンを、後ろ蹴り一発で道場の真中から壁まで、ぶっ飛ばしたのである。

 

岸は私よりも背が低く165センチぐらいで、体重も62〜3キロあるか無いかだったと思う。
私はその場にいなかったが、他の門下生が興奮して報告に来た。
その後どれくらい日がたったか思い出せないが、ある日、二階の道場で岸と他の黒帯と後ろ蹴りの話になった。

 

そのとき岸が、
「後ろ蹴りは、軸脚のかかとを相手に向けて踏み込むようにすると、蹴りに鋭さが出るようです」
と話した。
確かこの様な話だったと思う。

 

 

私はそのとき、心の中で「アッ」と閃いた。
自分の後ろ蹴りがどこか足らない。鋭さが無い。
その欠けているポイントが岸の説明で解けたのである。

 

 

大げさに言えば、「開眼」したのである。

 

 

読者の人は、「軸足を踏み込む、そんなことは・・・」と思いがちになるかもしれないが、私には暗い部屋で出口を探していたときに、ぱっと明かりが点いたような気持ちであった。

 

 

ここで後ろ蹴りの説明をすると、話が長くなりすぎる。
簡単に言うと、後ろ蹴りは、身体を回転させて<背中を見せて>蹴る。

 

この回転がポイントなのである。

 

「回る」「回す」のと「踏み込むように回転する」のでは全然違ってくる。
頭、肩腕、両足、身体をどう使うか違ってくるのである。
私は岸が後ろ蹴りに「開眼」したと思った。

 

 

今でも思うのは、岸が右足だけの後ろ蹴りだけでなく左も同じように蹴れたら、
また「開眼」した後ろ蹴りを「前に出る組手」「受ける組手」「変わる組手」等いろいろな型に創り上げていったら、
きっと全日本選手権を取ったことだろう、と思っている。

 

人を指導しているとき、その人間からヒントを貰うことがある。
自分に、いつも戒めているのだが、指導は一方通行ではない。
教えている相手の動き、技の使い方などから自分のカラテを深くする場面がある。
指導は自分の稽古でもある。

 

 

「開眼」前にも述べたが、鈍い奴、器用な奴、いろいろタイプがあるが、誰でも開眼への「才」は持っている。
これは間違いない。
徹すれば、出会えるかもしれない。
稽古に徹することが大切である。

 

走れる時に、走り。
跳べるときに跳ぶ。
唄うときに唄う。
しかし岸は渋い声をしていた。
岸が酒の席で山形の民謡、確かではないが新庄節か何かを力強く歌っていた。
歌は追いかけなかったので、岸の素晴しい声を聞いても閃き、開眼は残念ながらなかった。
正直に告白する。今も私は音痴です。
でも「赤トンボ」は自分なりに歌える。

 

 

押忍

コメント (0) | 2007/10/15

エッセイ

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