いよいよ深南部アラバマに出発
アラバマは猛暑が続く。家から一歩外に出ると、熱気が身体にまとわりつく。
暑さだけでなく湿気が強いせいか空気が重く感じる。
朝の散歩、ステラもハナも歩き始めて10分ぐらいで、息が上がってしまうようだ。
別にステラとハナが私に話かけるのではなく、口を開けハーハーと息が荒くなり、歩くテンポが落ちてくるからである。ときどき恨めしそうに私を見る。
そこで私が目線に力を込めて、息が上がってからが本当の稽古がはじめんだ!気合を入れろ!・・・俺も頑張る、と言う。ホントである。
残暑の厳しい中、朝の散歩私も気合を入れないと何かと理由を付けてサボってしまう。
しかし正直に言って、ステラとハナの気持ちがよくわかる。
と言う訳で、暫くご無沙汰したワンダフル空手第24話である。
NYで約2週間ぐらい兄貴の世話になった。勉強になった。
兄貴の道場で見たダイナミックな指導、稽古の内容、黒帯、茶帯などアドバンスの門下生のレベルの高さに驚いた。刺激が強すぎるぐらいに感じた。
東京の極真会総本部の道場が世界で一番レベルが高いと自負していたので、自尊心が傷ついた。その自信と言うか傲慢な気持ちが兄貴の指導、稽古中見えた門下生の高度な技や動き、レベルの高さに圧倒されてしまい、揺らいでしまった。
気持ちを締め、初心に帰って気合を入れなければいけないと本当に心から思った。
私は気合の塊となった。眼が三角四角になり肩が張り胸を突きだし兄貴の顔をみて「必ず極真カラテを深南部に発展させる」と啖呵を切った。
そんな気負い過ぎている私を兄貴は笑いながら、とにかく体に気を付けて頑張れと空港まで送ってくれた。
写真:ホント若かった
1972年10月3日NYラコーデア空港である。
いよいよデープサウス{深南部}アラバマ州バーミンガハムに出発した。
NYからアラバマまで約2時間半、デルタエヤーラインの直行便であった。
私以外は全て白人と黒人であった。なんとなく全ての乗客の視線、スチワーデスの視線を強く感じた。それでも気張って座っていた。使命感に燃えていた。
出発して約一時間過ぎたころ、スチワーデスが飲み物を聞きに来る。
カラテについては誰にも負けない気迫があったが、果たして私の英語が通じるだろうか。
大きな不安になるぐらい疑問に思った。
・・・誰でも恥をかいた経験はなかなか忘れないものである。
これからの話は、本当にあった事である。
スチワーデスが乗客に注文を聞きながら、だんだんと私の席の方に近いてくる。
知らぬ間に胸の鼓動が高鳴った。胸が騒いだのは英語に自信がなかったからである。
最初に何を注文したらいいのか迷った。
しかし直ぐにorange juice,オレンジジュースと答えが出た。
そこで口の中で「オレンジジュース、オレンジジュース」と繰り返し練習をする。
いける、ナチョナルな発音だとは言えないが充分通じると思った。
スチワーデスがビジネス用の微笑で「would you like a drink?」と聞いてくる。
「ヨシ!」と気合を入れて「イエス オレンジジュース プリーズ」答える。
ぎこちない微笑をうかべながら、このチョット太めのおばさんを見つめる。
ところが、このスチワーデス私の期待を裏切って、眼をキッと光らして、無情にも「excuse me!」と聞き返してきた。焦った、本当に焦った。とたんに自分の顔が熱くなった。
乗客の視線がなぜかみんな自分に注がれているのではないかと感じてしまった。
ちょっと顔が引き攣ったが、なんとか微笑を保ちながら、もう一度「オレンジジュース プリーズ」と言う。今度はこのデブのスチワーデス身体を私の方に開き直り、「excuse me !」と無情にも、聞き返してきた。
額にジワッと汗が出てくる。それでも丹田に力を入れて、ゆっくりと「オレンジジュース プリーズ」と繰り返す。このスチワーデス、私にキラッとした冷たい目線を向け、それから眼にしわを寄せ、両肩をあげて、黙ってトマトジュースを置いた。
私の英語がまったく通じなかったのである。
オ{O}はなく、ト{TO}である。ショックであり最初の壁にぶち当たった感じがした。
「オイ、お前~、俺の英語が分らないのか!トマトじゃないよ、オレンジ、馬鹿もん!」
と口には出さなかったが、そう思った。
目の前のトマトジュースを、ウ~ンと唸りながらさも自分が注文したような顔つきで飲む。隣の男の人が貴方オレンジジュースを注文したのではないか?と聞いてきた。
私はあいまいに答えて、ゆっくりとトマトジュースを味わった。甘酸っぱいトマトの味をあじわいながら、この先が不安になった。ここはアメリカなんだと思い知らされた。
両肩に背負ってきた気合いが一瞬にして崩れて仕舞う様であった。
気負い過ぎた私が英語の壁にぶつかりなんとなく調子が狂ったが、フライトも大きな揺れもなく無事にバーミンガハムに着いた。
最初にタラップから降り立った時、ここは本当にアメリカか・・・と思った。
タラップに立って外を見ると小春日和の柔和な陽の光に緑の世界が広がっていた。
私の乗ったジェット機は滑走路からチョット外れたところに停まっていた。
今の世界では考えられない事である。セキュリティSecurity、 TSAの人もいないのである。
タラップを降りて、それぞれ手荷物をもって空港ロビーにゆっくりと歩いていく。
お伽話のような光景である。
当たり前だが、自分の両足で右左と歩くのである。そのままロビーまでいく。
滑走路の端には、ぺんぺん草が生えて、名前も知らない雑草とワイルドフラワーがあっちこっちに咲いていた。
まったく長閑な風景である。なにか気負っていただけに気持ちがズッコケタ。
写真:新しい道場、支部長のロンと稽古
支部長のロン・エプステイン先生に迎えてもらった。
そのまま私の下宿先に案内してもらう。
空港から約15分ぐらいでホームウッド{Homewood }と言う静かな住宅街に着いた。
赤いレンガ作りの洒落た家であった。同じようなレンガ作りの家が並んでいた。
部屋はワンルームであったが広かった。一見すると高価な家具が置かれてあり、ベットもなぜか二台並んであった。トイレは隣にあり、シャワーが一緒になっていた。
今は日本も洋式化されているので、トイレと浴室が一緒のスタイルは一般化されているようである。ホテルなどはみんなこのスタイルなのであまり抵抗感がないと思う。
あの当時{44年前}私はまだこのスタイルに慣れていなかった。
部屋は広いのだがキッチンが付いていなかった。冷蔵庫だけは部屋の片隅に置かれていた。
支部長のロンに飯はどこで料理するんだと聞くと、シャワー室の水道を使って、電気でやってくれとのことである。
「君ね~、トイレのあるところで料理をさせるのか」思わず出かかったが我慢した。
ちょうど兄貴のところから古い電気釜を貰ってきたので何とかなると思った。
私の部屋は裏庭から見ると1階に見えるが、家の表の方、玄関から見ると、ベースメン{Basement 地下}になっていた。
この家が建っている地盤が緩やかな傾斜になっているからである。
裏庭は広々として芝生が綺麗にひき詰められていた。
部屋の窓から見ると左側の隅近くに大きな松の木が生えていた。
私のドアから表の道まで綺麗な石畳が続いている。
ドアの右横も石畳になっていて、そこにキャンプ場にあるようなベンチが置かれてあった。
家主は表の玄関を使い、私は裏庭のドアを使う。出入りが別々になって、お互いにプライバシーを尊重する、上手い作りの家であった。
家の周りは灌木に囲まれていて、ところどころに百日紅の木が細い幹を伸ばしている。
聞こえてくるのは小鳥の囀り位であった。なんか静か過ぎる感じがした。
荷物はそれほど無かったが、整理して夕方の稽古時間まで休むことにする。
ソファーに横になって眼をつむるが、何となく興奮して休まらなかった。
どんな道場なのか、門下生は・・・いろいろと頭の中で想像が勝手に走り回る。
支部長のロンは従兄弟二人と婦人靴店を33軒も経営している実業家である。
実業家と言っても自ら先に立って配達や、仕入れ、客との応対もこなしていた。
そのロンが夕方迎えに来る。道場は私の下宿から車で10分もかからないところにあった。
常設道場ではなく、シェーズバレー{SHADES VALLEY}YMCAの中にあった。
知らされていなかったので、顔には出さなかったが内心「う~」と唸った。
YMCAの責任者Mrs.ガーウックに紹介してもらう。優しそうな雰囲気を持っている50歳ぐらいの女史で初対面の印象は良かった。カラテの稽古は週3回であった。
ロッカールームは他のYMCAメンバーと一緒である。
今まで常に常設道場で稽古、指導してきたので、道着に着替えるのも一般の人とは別の部屋であった。カラテ関係者以外の人と一緒に着替えるのがなんとなく違和感であった。
あの頃は、何処に行っても周囲の人の目線を強く感じた。
ロッカールームは一階にあり、清潔感のある広い部屋であった。
道着に着替えていよいよロンに付いて道場に向かう。期待で胸がドキドキした。
なんと道場は地下のボイラー室であった。ショックであった。狭く、薄暗い部屋である。NYで忠さんや兄貴の立派な道場を見てきただけにその違いに驚くと同時に暗澹たる気持ちになった。わが目を疑った。
時間になり門下生がポツポツと洞窟の穴倉から出てくるように姿を見せ始める。
20人位だったと記憶している。若い男が多かったが、中年の人もいた。
4~5人の女性も混じっていた。
彼等のスタイルを見て、我が目を疑った。頭が痛くなった。
続く
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