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国際大山空手道連盟 WORLD OYAMA KARATE ORGANIZATION

第26話 いよいよ組手

毎日素晴らしい天気が続く。早朝はピリリと締まるような冷気が身体を包む。
10月が終わろうとしているのに、日中はまだ残暑の余韻を感じる。
散歩の小道が枯葉に覆われてしまった。
枯葉を踏みつけながら、サクサク、カシャカシャと音を立てながらステラとハナと歩く。雑木林の中に朝陽が斜めに射し込んでくる。
長かった夏がどこかにさって秋が深まりつつある。
アラバマの秋は春と同じように短い。
私が44年前はじめてここアラバマに来たのも10月であった。
バーミンガハムの街も変わった。良いのか悪いのか私にはわからない。
でもカラテに対する情熱はむしろ昔より深くなっているように思う。
私は本当にカラテに出会えて幸福である。
そこでワンダフル空手第26話である。

 

バーミンガハムに着いて4~5日する頃から街の雰囲気にも慣れてきたように思う。
日が過ぎるうちに、身体の調子は徐々にではあるが良くなってきた。
あの頃の日課は先ず自分のコンデションを戻すことに集中した。
まず朝のランニングから始まり、身体をほぐしてから、ここアラバマの黒帯や茶帯をイメージして前に出る組手、受ける組手のコンビネーションを流す。
裏庭の隅にある松の木に古いブランケットを巻き付けてサンドバッグ代わりにした。
松の木の周りを動きながら拍子を変えて、蹴って突いた。
ある朝、家主のオバサンが二階の窓からそれを見て拍手をしてきた。
家主はMRSマケイローというチョット太り気味な55~6歳ぐらいの婦人である。
勿論「お歳は幾つですか?」など聞けない。MRSマケイローさんが、拍手の後「そんなに強くパンチやキックしたら松の木が倒れてしまうかも?」こんな感じで声をかけてきた。
マジかと思ったが、次に彼女がJoke{冗談}と言ってきた。
あの頃アメリカ人の冗談に、ついていけず戸惑ったことが多かった。
庭の隅の松の木は大人が3人位両手を広げて囲むぐらいの大木である。
千回万回突いて蹴ってもビクともしない太さであった。
でも故総裁だったら「君~やれば出来るのよ、そんな木一発で倒してしまいなさい。極真カラテ・・・」なんって言ったかもしれない。

朝の稽古が終わると夕方の稽古まで時間があく。樹木に囲まれた静かなたたずまい。
聞こえてくるのは、名も知らぬ赤や青、黄色などのいろいろな野鳥の囀り、時々どこかの犬が吠えている。とにかく静かであった。
私は東京の真中、文京区小石川の生まれである。
青春と言うか若い時代、生活のすべては朝から晩まで東京であった。
ここバーミンガムの静か過ぎる環境にホント最初は戸惑った。
時間が余ってしまうので、すぐに思いは東京の街に飛んでいった。
「俺は極真カラテを発展させる」という使命感に燃えていたのだが正直に言って、葛藤があった。もしかして、日本で極真カラテをもっと発展させることがここにいるより大切なのではないか、ここは俺の居る所ではないかもしれない。・・・などと考えが浮かんでくるのである。・・・要するに、ホームシックになっていたようである。
部屋にはラジオ、TV{白黒}があるが聞いても、見ても何だかわからない。
時間をもてあましていた。ボーッとした時間があると、いろいろと囁きが出てくる。
なんとか日本に帰ることができないか、・・・そんな考えが浮かんでくる。
インターネット、スマートフォンなど夢のまた夢であった。
今の若い人には考えられない様な生活である。
毎日せっせと手紙を書いた。住所を知っている友達には全部手紙を書いたように思う。
時々東京の本部の後輩や昔の友人から返事が来るとその手紙を、何回も、何回も読んだ。暗記するぐらい読んだ。一日のうちで一番エキサイトなのが、郵便箱を見ることであった。毎日郵便箱を見てエキサイトしていた。
ちょっと話が脱線するようなので、道場の組手に戻す。

 

あのころ私の体重は61キロ、身長は171センチであった。
最初に生徒の身体を見たとき胸の厚さ、腕や足の太さ、身長の違いに自分の技が果たして効くのかどうか、疑問が生まれた。その疑問は私の自信を揺らがした。
それでも毎日汗を流していると、身体の調子が良くなってきた。
自然と周りの連中の身体が私の倍の倍、あってもそれほど気にならなくなってきた。
“ヨシ、コイ、やってやる!バンバン組手をやってやる”気合いが入った。

 

一番生徒が出席する曜日を選び、組手をやることにした。
いつも稽古の日は見学者が多かった。
軽く基本を流し、移動稽古、と進み、全員座らして「レッツ ファイト!」と話す。
クラスの中に騒めきが出た。あの頃の日本の総本部道場と同じように、黒帯の先生ロンと
私が前に立ち、白帯の初心者に突いて蹴らした。
もちろん、ロンには「パオー」は駄目、受けだけで動くように指示をする。
相手の左右に動いたり回り込んで、簡単に的をあげないようにする。
身体が温まり、気合いも入ってきた。

 

 

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あの頃はロンのほかに黒帯はいたが殆どが年寄りでなんとなく名誉段のような感じがした。その代り茶帯は若い奴が多かった。顔面ありで組手をやってきた連中である。
入門して最初の組手で顔面を叩かれたら、普通の連中は殆ど止めてしまう。
そんな稽古の中で茶帯まで来たということはそれなりに場数を踏んでいる事である。
注意しなければいけないのは、歳のいった黒帯ではなく、若い茶帯であった。
中でもモーターサイクル・ギャングのような感じの奴がいた。名前をマイク・Pと言った。いつも長髪に鉢巻をして上から見下すような人の気を伺うような目線を向けてきた。
稽古中に時々技や動きを注意する時、「オス」という返事は返って来るが、その返事になんの尊敬心の気が入ってないように感じた。
私から空手の指導を受けると言った感じではなかった。
俺は既に空手をマスターしたような、ふてぶてしい色が身体から滲み出ていた。
感情の入らない目の色をして自分の好きな事を稽古している感じであった。
こいつは必ずノバさないといけないと思った。

 

初心者との組手を終えて、ロンと向かい合う。道場が静かになる。
あの日までロンとかアドバンスの生徒とは組手をやらなかった。
私がロンを呼び、構え合うと、みんな驚いたような顔色を見せた。
ロンの得意技は右の正拳逆突きである。蹴り技は身体が硬いので角度のある技はこなせなかった。左の掌底で顔面を牽制して、パオーと右の正拳を繰り出す組手であった。
ただ右の正拳に自信を持っているので、その技を出すときの呼吸がうまかった。
そこだけ注意すればいい。構え合ってから、私が「ハイ、ハイ」と言いながら間合いを詰めると読み通り左の掌底が飛んできた。
右手で受けながら同じ拍子で左の掌底を出す。
さらに間合いを詰めると私の左の掌底にロンの高い鼻が触れる。一瞬ロンの動きが止まる。
そのタイミングに右の下段回し蹴りを出すとロンの身体が私の腰の高さまで浮いた。
“ドーン”と倒れたロンの顔面に、大きな気合いを入れて正拳をきめる。
ロンの顔に苦笑いが出る。生徒が拍手する。ロンがまだやるというのでオッケイレッゴーと言い。また始める。同じような展開が三回続いて終わる。

 

 

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ロンとの組手は殺伐とした内容でなく、楽しい感じの組手ができた。
私の事を毎日家族のように面倒を見てくれるのである。
ロンだけでなく彼のワイフも子供達も同じように親身になって接してくれた。
だから突きや蹴りをガンガン当て、血を見るような組手はやりたくなかった。
ロンの後、次の相手は長身のリンジーという茶帯であった。
身体が柔らかいのでいろいろな蹴り技をこなしていた。
ただその蹴り技が自己流なので蹴りの角度が甘く簡単に読めた。
ロンを倒したのでリンジーは最初から慎重に構えた。
なかなか技を掛けてこなかったので私からどんどん間合いを詰めて出た。
奥足の回し蹴りから後ろ回し蹴りを早い呼吸から繰り出してきたが、何時ものパターンで、最初の回し蹴りの蹴り足に従って回り込むと後ろ回し蹴りはタイミンが外れてしまい。
リンジーの身体が流れる。そこに腰のタメを充分生かした前蹴りをきめる。
リンジーが壁まで飛び下がりそのまま前に倒れて悶絶する。
ロンとの組手とは内容が一変して、道場の中が静まり生徒達の緊張した気を感じた。
リンジーの息が帰るのを待って「ユー オッケイ?」というとウグウグと苦しみながら手を目の前で振る。リンジーの気合いはどこかに消えてしまった。
リンジーとはその後も何回か組手をやったが、一度両手で捕まれたとき、自然に頭突きが出てしまい、彼の鼻を潰してしまったことがある。
ロンもリンジーとの組手も注意したが、一番気を使ったのがマイクであった。
前にも述べたが、何時も睨むような目線を向けて私の指導を聞いているのか、聞いていないのか分からない、ふてぶてしい態度をしていた。
此奴だけは必ずノバさないといけないと心に決めていた。
マイクはいつも無表情のまま平気で顔面に正拳を出してくる。
相手が鼻血を出しても表情を変えない冷酷な奴に私からは見えた。
ロンとリンジーとの組手を見てマイクの表情が硬くなったように見えた。
構え合ったとたんに、いきなり左右の正拳が飛んできた。私の読みの内であった。
マイクの正拳に合して受けながら左に変わる。
変わりながら右の掌底で顔面を牽制するとマイクの両手が上段にあがった。
左の速い前蹴りで水月を蹴ると浅く入ったが“ブス”と言う感じが中足にくる。
マイクの態勢がいくらか前屈みになる。
蹴った左の足を交差歩で引きそのまま左の回し蹴りを右顎に決める。
絵に描いたように決まった。瞬間マイクの身体が硬直する。
両手両足が引き攣って電信柱のようにそのままドーンと倒れる。まさにドーンと倒れた。
マイクの口から「ガァー、ガァー」とイビキが漏れる。
ロンも生徒もみんな「アッ、オッ」悲鳴を上げる。
蹴りが決まり身体が硬直してそのまま倒れ、イビキをかくのを初めて見たようである。
私は何度も見ているので気持ちは動転しなかった。
それに、どう処理するか医者じゃないが何度も経験してきた。

 

ちょっと余談になるが、脳震盪や関節が外れたときの経験談を話してみたい。
私がアメリカに来る前に極真の本部道場で夜の一般部のクラス、組手の最中に相手の回し蹴りを受けたはずみに、右肩を外してしまった生徒がいた。
右腕が顎の下についているように見えた。私の指導中の事である。
生徒全員の顔色が真っ青になったように見えた。
私は慌ててはいけない、できるだけ冷静に冷静にと自分に言い聞かした。
「どれどれ・・」と言いながらその生徒の前に出た。
外れたんだから元に戻る訳だから心配するなと・・そんなこと言ったようである。
ところが誰かが救急車を呼ばないといけないと言い出した。
その生徒を黙らして、はずれた生徒の前に立った。
なんとなく外れた腕を戻せるような気がした。
後ろから二人ぐらいの黒帯にその生徒をおさえさせて外れた腕の手首と肘をもって、そのまま腕を首の方に押し上げるようにしながら斜めにあげると「ボッコン」という音と同時に右腕が見事に肩に戻った。自分ながらオウーと感激した。
そのあと私の心臓が早鐘のようになり、汗がド~ッとでた。
指の関節は何度も入れたことが有る。ひざの関節は二度ほどある。
関節が外れると直ぐ入れてしまうとダメージが少ない。医療費もただである。
外れると間節を支えている筋にダメージが出ることが多い。
注意しないといけないのは、一度関節が外れると癖になる事がある。
時間をかけてリハビリをし、完全に治すことが大切である。
カラテの指導をしていると、ドラマチックな経験をする事が多いようである

 

話をマイクの脳震盪に戻す。
生徒が慌てたが、私が水を持ってこいと言うと誰かが、バケツに水を持ってきた。
タオルで冷やして首の後ろ、額と拭ってやる。帯を緩めて話しかける。
少しずつ、眼が覚めてくる。そこでマイクに今何処にいるのか?今日は何曜日だ?とか質問する。夢でも見ていたような顔つきから段々と自分がノバされた事が分かってくる。
そうっと立たしてゆっくり歩かせる。フラフラするがだんだんと意識が戻ってくる。
マイクの平常な姿を見て道場の張りつめた雰囲気が柔らかくなった。
マイクとの組手の後、出席した全員の生徒と組手をこなす。

 

私はその日から毎日出席した生徒全員と組手を始めた。
出席が20人、30人、時として50人ぐらいの時もあった。
ホント毎日身体のアッチコッチを痛めていた。職業病と思い我慢した。
とにかく自分の黒帯を作るまで自分の身体で指導しようと心に決めた。
私の最初の黒帯はその後3年経って出来た。
最初の黒帯の審査では組手を36人やらした。初段の審査である。
審査が終わった後、病院に行って口を8針縫った。
今ふり返ってみると、あの頃の私は普通じゃなかったように思う。

 

最初の組手をこなした後、指導もやりやすくなった。みんな私の言うことを真摯になって聞いてくれた。本格的な指導があの日から始まった。
アラバマにきて2週間後である。私は目を今度は外に向けることにした。
NYを出るときに茂兄が「自分の名前を売りたかったら、一番はやいのは道場破りをすることだ・・・」とアドバイスをしてくれた。凄い兄貴である。
あの頃バーミンガハムの街、その近辺に既に二つの日本の流派の道場があちこちにあった。
なかでもハワイに本部を持つW流派は大きくアチコチの商店街に道場を出していた。
一番派手にカラテの道場を経営していように見えた。
私はそろそろ二つの流派の道場に出向いて、自己紹介しようと思った。
眼が三角四角になって、細い体を何とか大きく見せようと気合いを入れていた。
ホント、燃えていた。
続く。健康第一! オス

コメント (0) | 2016/11/06

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