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国際大山空手道連盟 WORLD OYAMA KARATE ORGANIZATION

第11話 他流派との対決

あっと言う間に3月、寒さが残っているが夜が明け始めるころから小鳥の囀る声がうるさくなってきた。
春になると野鳥の種類も多くなるようだ。
日が頭の上に来るころになると、陽だまりの中、ステラとハナが暖をとっている。
長閑である。そろそろ旅の支度をしなくてはいけない。
春の講習会、審査会である。
気合が入る。という訳で、ワンダフル空手第11話である。
 

私が波に乗り始めたこの時期、確か高校2年の終わり頃か3年生だったと思います。
なぜか春山の出席が落ち始めました。
最初のうちは春山との距離を縮めるチャンスと思い、余計に気合を入れて稽古をしましたが、春山の欠席が続くと何か私の気合が落ちて行くのがわかりました。
 
 
そんな時期の或る日、突然他流派の人と組手をやらされることになりました。
丁度その日は珍しく春山も基本稽古から参加していました。
長い基本稽古が終わった時、某大学空手部一団が道場に来たのです。
“道場破り”とはちょっと違うようでした。
それはその大学空手部の人達が故大山総裁(立教大学裏のオンボロアパートの中にあった道場時代、われわれは総裁のことを先生と呼んでいた。ここでは先生と言わせてもらう)と既に親しい間柄のように見えたからです。
それと彼らの態度が先生に対して非常に礼儀正しかったのです。
 
ところが、彼らは私たちに対しては
「さぁー、いっちょう揉んでやる」
という様な傲慢な態度に見えました。
主将かキャプテンか何かわかりませんでしたが、二人は何と紋付き袴、高下駄の格好でした。
そんなスタイルはマンガでしか見たことがなかったので私は驚きました。
 
その人が我々の視線を意識しながら、おもむろに高下駄を脱いで両手に持ち、カッカと音立てながら
「オイ、よく見ろ、どうだぁ、決まっているだろう・・・」
という様な顔付きをしました。
「ふざけるなーここは芝居小屋じゃないよ!」
そんな気持ちを持ったのは私だけではありませんでした。
 
その人たちが道着に着替えているとき、先生が私と春山を
「チョット君達、こっちに来なさい」
となぜかそっと囁くようにドアの外に呼び出しました。
急いで先生の後についていくと
「君達、当てて仕舞いなさい」
と小声で言って、「クッククック」と忍び笑いをもらしました。
先生のなにかうれしそうな顔を見て春山も私も一緒に笑ってしまいました。
 
 
道場に入ると着替えが終わった人が突きや蹴りを自慢げに見せていました。
彼等が突いたり蹴ると道着から「バシ、バシ」と派手な音がするのです。
彼らの道着の生地が我々のヒラヒラした道着と違って厚かったのです。
何か大袈裟な音に聞こえました。
突きや蹴りを出し、そのあと必ず我々が感心して見ていることを確認しているのが可笑しかったです。
もちろん春山は彼等の気持ちを察して細い眼を大きく開いてビックリした様な顔をつくっていました。
その仕草があまりにも上手いので私は感心してしまいました。
 
先生は我々に
「皆よく指導を受けなさい」
と言って片隅のデスクに座り、何か書きものを始めました。
確かではありませんが、7~8人だと思いました。
彼らは皆、胸を張って上座に並びました。
私達はもちろん下座に整列です。
茶帯が2人であとは皆黒帯でした。
茶帯が2人だったのはよく覚えています。
最初に春山と私がその2人と組手をしたのと、私が茶帯だったからです。
 
私達は彼等がウォーミングアップするのを見守る形になりました。
「オイヤー、トウ―、ウンウン」
「エイヤー、セイヤ―」
などとチョット違う気合いが面白かったです。
春山が彼等の気合を聞きながら「ウーン、オウ―」と大袈裟に感心しているのが可笑しくてうちの黒帯の先輩や私も思わず忍び笑いを漏らして仕舞いました。
 
 
組手が始まりました。
茶帯の二人が立ちました。
二人とも私よりいくらか身長があり、肩幅がありました。
それでも春山と比べると大人と子供のようでした。
お互いに礼をして構え合ったとき、二人の後ろから黒帯が
「コントロールして」
と私と春山に気を使ったアドバイスが聞こえました。
 
私の相手は、腰を深く落としているので足幅が前屈立ちのように広くなり、両拳を水月の高さに置いて構えました。
拍子、呼吸を弾む様に身体全体で取る感じでした。
構えが大きいので動きが簡単に見えます。
技としては、先ず前足の蹴りは出せない、踏み足で飛び込みながら正拳突きが来るぐらいに読めました。
あまりにも突きや蹴りがヒットしやすいところに坊主頭の渋い顔があるのです。
春山の相手も同じように構えておりました。
 
「始め」の合図と共に、相手の右にチョット誘い構えを開かせ、左に送り足で入り左の顎打ちを出しました。
顎に決まり腰が崩れるのが分かり、さらに右の回し蹴りをテンプルに入れたらそれで終わりでした。
のびて仕舞ったのです。
 
春山は「ホレ、ホレ」と気合を入れながら、相手を追いかけ回しておりました。
ガンガン殴って蹴っていました。
「止めーい」の声に二人を見ると顔がボコボコでした。
 
 
変わって黒帯の人が相手になりました。
私と春山は席に戻らずそのまま相手を勤めました。
私は突きや蹴りが決まるたびに「シツレイシマシタ」を連発しました。
春山はただ「ホレ、ホレ」と連発して道場の中を追いかけ回しておりました。
ときどき投げが決まるのか「ズシン、ズシン」と大きな音がしてオンボロ道場が揺れました。
 
稽古が終わり帰る時はみんな顔が4角5角8角になっていました。
いくらか前屈みになり静かに出て行きました。
先生がニコニコしながら
「又稽古を付けてやってください」
と弾んだ声で送り出していました。
 
 
もう一つの他流派との組手はT.K.というなんか得体のしれない人が先生を訪ねてきました。
そのころ有名な力道山のジムに出入りしている人だと、先生が我々に紹介してくれました。
先生も身体が大きかったがその人も立派な身体をしていました。
何とその人は道着の上を取って皆の前で両手で「バシン、バシン」と自分の体を叩き出しのです。
私だけでなく皆ビックリして唖然と見てました。
「どうだ、俺のこの身体見てみろ、お前たち・・」そんな感じに見えました。
 
胸、肩、腕の筋肉が見事に盛り上がっていて私の3倍は楽にあるような人でした。
私はその人のボディ―ビルダーのような身体付きに感心するより、ああ言う身体になれるのは、きっと毎日ステーキや鰻重、パンケーキや卵焼き、いろんな美味しい食べ物を腹いっぱい食べているんだろうな~と羨ましい気持ちで見ていたように思います。
 
先生が
「遠慮なく組手の相手をしてもらいなさい」
と私達に何か暗示をかけるように話してくれました。
その意味は十分我々には通じました。
 
 
このT.K.と言う空手家(武道家)、組手が始まると突きや蹴りを出すのですが、鋭さに欠けてタイミングがいくらか遅れて仕舞いがちでした。
殆ど出す技が読め、動くサンドバックのようになってしまいました。
面白いように私の技が入ります。
私の利き腕の正拳がヒットすると腰が落ちかかりましたがなんとか我慢をして倒れませんでした。
顔を真っ赤にして
「君、当てないように、もっとコントロールしないといけません」
と組手の最中に私に注意してきました。
私は先生の顔、先輩の顔を見ましたが笑っていました。
 
続きが始まりました。
私の三角蹴りがわき腹に決まりました。
T.K.さんの脇腹に足首までめり込みました。
窓際まで吹っ飛びました。
腹を押さえてウーっとうなりました。
息をとり、今度は顔を真っ赤にして怒りを表に出しながら突いて蹴ってきましたが、残念ながら私には届きませんでした。
頭、顔、胸からも汗が滴り落ちてきました。
私の突きも蹴りも面白いように決まりました。
 
それでもT.K.さんは頑張りました。
なかなか組手が終わらなくなりました。
T.K.さんがフゥーフゥー言いながらなんとか私を捕まえようとしているのですが、焦れば焦るほど動きがスローに見えました。
私は捕まりませんでした。
 
T.K.さん、遂に諦めました。
「今日は調子が悪い」
と言い訳をして我々の組手は終わりました。
 
 
この人はその後アメリカのロサンゼルスに渡り、大いに自分の空手を広めて有名になりました。
ハリウッドの映画にも2~3チョイ役で出ていました。
きっと私との組手など忘れていると思いますが私は良く覚えています。
私に自信を与えてくれた大事な人なので忘れません。
確か私が高校3年の時に彼は27~8歳だったと思います。
 
彼がアメリカで有名になったのを知ったのは、私が渡米してアメリカの空手の雑誌を生徒に見せられて、このT.K.という空手のグランドマスターが今一番有名なんだと私の生徒に教えられたからです。
なんか複雑な気持ちでした。
昔、池袋のオンボロ道場でボコボコにしたんだ、と言っても私の生徒は信じてくれないような気がしました。
それほど彼は有名になっていたのです。
 
でもきっと私との組手、右の正拳、中足は忘れないかもしれません。
「イヤ、覚えてないよ」と言うかも。

コメント (0) | 2010/03/17

ワンダフル空手

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