入門案内 誰でも楽しく空手の稽古ができます

国際大山空手道連盟 WORLD OYAMA KARATE ORGANIZATION

第12話 さらば吾ライバル

五月が終わる。
昨日と今日は日本の梅雨を思わせるような天気が続いた。
雨の中、紫陽花の青紫の花が咲いている。
紫陽花は華やかさよりも静かさを漂わしている。
アラバマはもう夏になったようである。
 
六月はサンフランシスコのファイターズ カップ、日本でのチャレンジ カップ、それに支部長合宿が続く。
気合を入れなくては、・・・と言う訳でワンダフル空手第12話である。
 
 
組手が面白くなってくると、反対に基本稽古や型の稽古が何かもどかしく感じるようになってきました。
組手の時間が待てない。いざ、組手の時間になるとガンガン先輩たちと技をぶつけ合いました。
自分の突きや蹴り、投げが決まり相手がもんどりうって倒れたりすると、自分の身体がどんどん大きくなっていくような不思議な陶酔感に浸ったりました。
抑えがたい心の昂りでした。
 
兄や春山、他の先輩に殴られ、蹴られ痛い思いや口惜しい思いを数えきれないくらいさせられましたが、何時か自分の番が来る、そう信じて耐え汗を流してきました。
道場での稽古だけでなく、学校でも電車の中でも、歩いていても、常に空手の世界が私のそばにありました。
徹して徹し抜くと、或る日突然目の前にパッと花が咲いたように空手の世界が明るくなりました。
自分の身体、心のどこかに埋もれていた何か得体の知れない才や力が、一挙に腕や脚になまなまと感じました。
 
 
以前のように茂兄との組手でも簡単に倒されなくなりました。
かえって今まで面白いように殴られ蹴られた復讐に燃え、よけいに気合が入りました。
だから兄相手の組手では一歩も引きませんでした。
 
兄は自分の長いリーチを利用して掌底で相手の顔面を牽制したり、そのまま顔面を叩いてきたり、よく続けてビンタ(掌底)を使いました。
何回もそのビンタを貰い口の中を切り味噌汁が飲めなくなりました。
春山との組手で自信がついた後は、兄にビンタを貰ったらビンタを思いっきり返しました。私のビンタが入った時兄は眼をまん丸くして驚いていました。
道場の中が一瞬静かになり、皆動きを止めた様に感じました。
兄は眼をパチクリ、パチクリして、そのあと顔を真っ赤にして襲いかかってきました。
 
私も気合が入りました。
まさに、激突です。
 
旧約聖書にある“目には目を” “歯には歯を”です。
我々の組手が段々エスカレートしていくので、この時期マス大山先生に兄との組手を禁じられてしまいました。
 
「君達は親の敵みたいな組手をやるね、余り殺伐としても良くない。今後私がいいと言うまで君達の組手は禁止する」
 
と言う事になって仕舞いました。
 
 
兄と最後の組手の時、正面からお互いの右の逆突きが相打ちになりました。
残念ながら私のほうがリーチがないので私の拳が浅く兄の鼻にヒットし、兄のデカイ拳が私の鼻の下に決まり、唇の上をパクリと切りました。
私は腰から落ちましたがすぐに立ちました。
意識が朦朧としていましたが、それでも気合は充分ありました。
兄も鼻血を出し私も口の周りが血だらけでした。
 
マス大山先生も他の先輩達も呆れておりました。
そのあと我々の組手は禁じられてしまいました。
(この章を書きながら思い出し、鏡で見るとその時の傷がまだ残っていました。頭に来ます。も一度勝負をしなくては?・・)
 
 
私の組手が激しく荒くなってくると、2~3人の先輩は私との組手を避け出しました。
私は春山との距離を大きく詰めたように思いました。
前にも話したように私が波に乗り始めたころ、春山の出席がめっきり減りました。
私は毎日道場に通いましたが、春山は月に1~2回、ポツンポツンと忘れたころ顔を出す程度でした。
 
春山のいない道場は火の消えたような、静かすぎる感じがしました。
いつものように燃える熱気、荒々しい気合がありませんでした。
激しさのない道場では私の気合も何か空回りしているようで、自分の技をどこにぶつけていいか分かりませんでした。
 
本当に稽古に気合を入れるのに苦労しました。
稽古が惰性になってしまいました。
 
 
そんなある日、晩秋か初冬、寒さが感じられる日にぶらりと春山が基本稽古が終わるころ顔を出しました。
何故か疲れたような冴えない顔つきでしたが、それでも稽古が続くうちに春山独特の野生的な顔色になってきました。
突きも蹴りも荒々しく猛々しい勢いを乗せてきました。
“打倒春山“という気持ちよりも一緒に汗を流していることが嬉しくもあり、何かほっとした安堵の気持ちに包まれました。
 
組手の時間になったのですが、なぜか自分からは春山に申し込みできませんでした。
そんな気持ちを読んだのか春山が組手の時間が終わるころ、照れた笑顔を向けながら
「オイ、久しぶりにやるか?」と、待っていた春山がやっと帰って来てくれたように声をかけてきました。
 
 
私は、「オイシャ―」と気合を入れました。
構え合った時、かつては閻魔大王かゴジラかと気後れしてしまうような春山が、普通のちょっと体が大きい人間にしか見えませんでした。
「アレ」と思いました。気合負けしませんでした。
 
春山は何時もの様に右足前に構え、肩を軽く揺すりながら動き出しました。
私は左足前の半身です。
私の構えを見て春山の顔に「ウッ」と言う何か動揺めいた色が走りました。
見たくないものを見てしまったように感じました。
 
何時もなら春山がどんどん間合いを詰めてくるのに逆に私が前に出ました。
前足の左で春山の右足を牽制しながら正面から入ると見せて右に変わり左の上段回し蹴りを出しました。
春山は下がりながら右手で受けました。
春山は私の速さに態勢をいくらか崩しました。
そのタイミングに右の三角蹴りを春山の左脇腹に決めました。
「ブス」と言う感触が稲妻のように私の身体を走りました。
春山はバランスを大きく崩しましたが、倒れませんでした。
 
私は崩れた春山を追って左の回し蹴りを出しかかりましたが、なぜか蹴れませんでした。
春山が「オーウ、マイッタ、マイッタ、泰彦お前強くなったな―」と言ってくれました。春山は自分のことのように喜んでいました。
胸が熱くなりました。
組手の終了間際にそれでも春山の得意な顎打ちを浅くもらい我々の組手は終わりました。
その時の組手が私と春山の最後の組手になってしまいました。
 
 
そのあと、春山は道場に出てきませんでした。
其の後、2~3年?過ぎたある日、稽古前に春山が交通事故で死んだと悲しい報告を先生がしてくれました。
ショックでした。
寝ても覚めても春山を追いかけてきた私には全く信じられませんでした。
 
私にとって春山は生涯のライバルであり素晴らしい友達でありました。
空手の世界では春山はずーっと先輩でしたが何時も私に声をかけてくれました。
春山が一歩道場に踏みこんだだけで道場の雰囲気がピーンを張ってきました。
大きな身体、強面、人を上から見下ろすような傲慢な態度でしたが、心の底に、情が厚く、思いやりが溢れるようにかくされていることを私は知っていました。
 
 
見えるか見えないような細い糸をたぐるように春山を思い出しながら昔の話を書いているのですが、昨年全日本選手権のため来日した際、郷田師範が珍しい人が我々に会いたいと連絡があった、と言ってきました。
何と春山の妹さんからでした。
春山の家族のことは全く知りませんでした。
不思議な縁です。
 
大会の終わった次の日にわざわざホテルまで立派な息子さんと出向いてくれました。
息子さんは弁護士で六本木にオフィスがあり、ニューヨークにも事務所があると名刺をいただきました。
妹さんは上品な婦人でした。
春山と全く違うイメージに私も郷田師範も正直に言って戸惑いました。
妹さんは、我々から是非昔の春山のことを聞かせてほしい、とのことでした。
我々はいじめられた悪ガキの親に文句を言うように、いかに無慈悲に春山にブッ飛ばされたか力を入れて訴えました。
妹さんは我々の話を微笑を浮かべて聞いてくれました。
 
その時、思い出すまま2~4話をしました。
 
 
<その1>
稽古に慣れてきたある日の帰り道、春山が
「オイ、俺の部屋に来い、飲みもんがあるから・・」と言い出しました。
歩いて行けるところにアパートがありました。
綺麗な洒落た建物でした。
 
部屋に入ると人相の悪い男が2~3人いましたが、春山が入ると皆兄貴分をみるように挨拶をしました。
次の部屋の襖を春山が突然開けました。
何と綺麗な女性が横になりその上に春山より人相の悪い男が乗っていました。
春山はいきなりその男の頭を叩き、同時に皆笑いだしました。
私はどこに目を向けていいのか、春山が「オイ、ビール、泰チャン何飲む?」と聞いてきました。
「オレンジ ジュース」と言ったら又皆笑いだしました。
 
 
<その2>
やはり稽古の帰り道、空の見えないバラックの中を通りぬけるところで、一目でその筋の人と分かる男達に囲まれました。
春山が私に道着を渡しながら「帰れ、俺とは反対のほうに走れ・・」と囁きました。
私はドキドキしながら春山のそばを離れましたが、誰も私のことは気にかけませんでした。
遠くから見ていると春山を囲んでいる人間がドンドン増えていきました。
脚が竦んでしまいました。
 
突然春山が「オウー」と叫びながら目の前の男に頭突きを出しました。
男はもんどりうって倒れました。
春山の身体が左右に鋭く動くと横にいた二人の男が左右に吹っ飛びました。
囲みが一瞬空き、春山が走りだしました。
私も池袋駅に走りました。
電車に乗っても心臓が口から飛び出てしまったようにドキンドキンを大きく音を立てていました。
 
次の日、先生が春山の乱闘が大きく新聞に載ってしまったと頭を痛めていました。
私は沈黙です。確かこの話は劇画「空手バカ一代」の中に出てきたと思います。
 
 
<その3>
明治大学の2年生のころ、或る日友人と後楽園にアイススケートに行きました。
昔、今の東京ドームに向いて左側にアイススケート場、右にローラ―スケート場がありました。
前は大きな広場だったのです。
 
そこを歩いていると前から派手な背広を着た大きな男が強面の男4~5人をつれて闊歩してきました。
みんな、道をあけていました。
春山でした。
私が「オウー、春山」と声をかけました。
すぐ春山が私の学生服を掴んで
「オイ、ここでは熊、クマ ユジローさんだ。後楽園はオレが治めているんだ。・・泰彦何かほしいものがあったらいつでも来な・・」
呆気にとられてしまいました。
 
 
<その4>
或る日、私の兄である博と二人で葉山か江の島に行きました。
そこの海の家が並ぶ道をやはり派手なアロハシャツのデッカイ男が2~3人連れて大手を振って歩いてきました。
春山でした。
私も兄もビックリです。
その後春山に御馳走になってしまいました。
兄博が帰りの車の中で感心していました。
 
 
 
不思議と私は春山と縁がありました。
何か運命的な人間の繋がりがあったようです。
春山はドンドン私とは別の世界に行ってしまいました。
春山は身体も大きかったですが、心が大きく器が桁違いに大きかったように思います。
いつも人の上に立つ男でした。
 
我々は時には爆笑し時には涙ぐみ春山の思い出を語り合いました。
短い時間でしたが又の再会を約束して妹さんと息子さんと別れました。
 
 
春山は私の前に大きな山のよう立ち塞がりました。
「さぁー、登ってこい・・」と、何度も声をかけてくれました。
素晴らしいライバルでした。
春山がいなかったらはたして空手を続けていただろうか、正直に言って疑問です。
今ある自分は春山が目の前にいたからあると思います。
どこか空の彼方で春山が「オイ、ホレホレ頑張れよ、ガンガン、ドンドン行け!・・・」と言っている様な感慨を味わいました。
 
さらばライバルよ!

コメント (2) | 2010/06/09

ワンダフル空手

« | »

 

“第12話 さらば吾ライバル”へのコメント (2)

  1. 押忍 最高師範
    大会に来ていただきましてありがとうございました。
    空手バカ一代世代の僕たちにとって、春山氏というのは強く心に残っているかたです。
    最高師範のライバルとして、最高師範の口から春山氏との日々が語られるのを見ると、劇画の中には納まりきれないほど豪快で強くて、繊細な優しさも持っていた方ではないかと勝手に想像してしまいます。
    総主との組手が禁じられていたという話も聞いてはいましたが、最高師範の口から語られるとその凄まじさがグッと身に感じられるようで、鳥肌がたちました。
    大山道場時代の個性溢れた方々が、稽古に励み汗を流し血を流す(!)雰囲気がビンビンと感じられました。
    でも、春山氏との日々は何か心の温まる思いにしてくれます。
    全てを含めたうえで、大山道場への憧れというものを抱かずにはおれません。
    春山氏の妹さんとの出会いの場面では、思わず目頭が熱くなってしまいました。
    そして空手で結びついた人間関係の運命を感じさせてくれます。
    自分がこんな事を言うのも僭越ですが、最高師範はとても豊かな人生を送られていると思いました
    (生意気なことを言って申し訳ありません!)
    このエッセイを読ませていただき、心温まり、そして大きなパワーをいただきました。
    ありがとうございました。
                               押忍!!   斉藤 武

    from 斉藤 武(2010/06/12)
  2. This is just the prfceet answer for all of us

    from Manianievanmaniani(2012/10/27)

コメントをどうぞ

すべての項目に入力してください。

 

(公開されません)

コメント:

(c) WORLD OYAMA KARATE ORGANIZATION. All Rights Reserved.