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国際大山空手道連盟 WORLD OYAMA KARATE ORGANIZATION

一人稽古

これは私の想像である。
 
多くの空手家は「自分だけの稽古の時間が欲しい」と思っている。
しかし、いろいろな事情が邪魔をする。
特に組織、道場を持っているとよけい難しくなる。
簡単には時間がつくれないのである。
 
 
私も組織を運営し、毎日指導を続けている。
自分の稽古時間を見つけるのに苦労する。
諸々の問題の処理。黒帯審査、一般審査、指導者合宿、帯研の指導テーマ、一般のクラス内容、国内、海外の大会、講習会、…等、どんどん出て来る。
 
時間に追われるのは空手のことだけではなく、家庭のことも関係してくる。
家人、子供たち、さらに孫との対話、食事の献立、料理、これは自分で勝手に思っている事だが私は料理がうまい。
だから昔の内弟子も皆料理がうまい。ホントである。
 
さらに愛犬、ステラとハナの散歩、餌、下の始末。
まだまだ沢山処理をしなくてはいけない事がある。
うまくコントロールしないと自分の稽古時間はない。
そこで強引に道場の稽古時間をアレンジする。
 
 
土曜の午後から日曜日は特別な行事がない限り道場は休みである。
ウィークエンドの道場は静かになる。
静謐な世界であるが道場は隅々まで門下生の気合が漂っている。
外の喧騒を気にせずに静かな気合に包まれて一人稽古をするのは、道場を持っている者にとって贅沢な時間となる。
 
長いようでいて短い時間が過ぎる。
歳をとると稽古のテンポが違ってくる。
緩やかになるのである。
 
ちょっと前までは、激しい稽古をしても一晩寝ると回復していたのに、身体を元に戻すのに2~3日かかる。
ときどき調子に乗ってガンガン稽古をすると昔の傷が顔を出す。
或る日突然厳しい現実を目の前に曝される。
認めたくはないが自然に気合、気迫が前々と溢れる様に出た時期は去ったようだ。
技や動きが緩やかになる。
自然と体と精神のバランスを考える。
 
まだまだ修行が足らない。
意識して考えるのではなく自然とそこに気が行ってしまう。
稽古の合間にいろいろ考える。
普段見えない事や気が付かない事を静かな道場は思い出させてくれる。
空手は本当に素晴らしい武道である。
自分が空手の世界に生きていることを心から感謝する。
ここまで来るのに数えきれない位の壁を乗り越えて来た。
 
 
最初の壁
 
道場には老若男女、いろいろな人が汗を流し、いろいろなドラマを見せる。
人それぞれの動機を持って入門する。
チャンピオンを目指す、黒帯を目指す、エクスサイズ、護身、痩せる、・・・いろいろである。
動機は違っても真新しい道着を身に付ける。
黒帯ではなく白帯を絞める。
鏡を見つめる。
なんとなくパジャマのようなスタイルだが、そこにはなんと、サムライがいるのである。
 
錯覚である。
まだ道場に出ていないのである。
そこはロッカー室、そこの鏡を見ているだけなのに、道場の雰囲気がなんとなく眼の前の現実を無視して気を飛ばしてしまうようだ。
昔もそうだが、現在の様に科学技術が驚異的に発達した社会、指の動きだけで生活の半分以上をこなしてしまう世の中、身体を動かす前に既に頭の中は、正拳も、回し蹴りも、膝蹴りもマスターしたように思いこんでしまう。
 
 
ところが、である。
稽古が始まる。
なかなか身体が思うように動かない、右足か左足、右手か左手か、自分の身体なのに分からなくなってくる。
息が上がってくる。
水が飲みたい。
できたらビールのほうがいい。
休憩時間はないのか?
ナニをこのインストラクター怒鳴っているんだ!
もしかして道場間違ったのでは!
 
・・・それでも稽古が終わった後なんとなく爽やかな感じがする。
稽古の後は身体が熱い、筋肉や筋の痛さや重みも感じない。
汗を流したので眠りもいい。
 
ところが次の朝目覚めると身体のアチコチが痛む、重い。
最初の壁、いや、まだ壁とは言えない、垣根、フェンスに突き当たる。
ここで止めてしまう人いる。
しかし逆に熱くなる人もいる。
空手の稽古が今までにない興奮を与えてくれる。
正拳も回し蹴りも映画やTVの中だけで自分の世界とは関係ないと思っていたのが何と自分の中にいきていたのである。
稽古に熱が入り興奮する。
エキサイテングである。
 
 
このタイプの人は2~3カ月は熱だけで稽古を続ける。
まさに朝から晩までカラテ、カラテである。
突きも蹴り技もなんとなく、さまになってくる。
身についたと思っている技を使いたくてウズウズする。
 
教典その1を表面的にマスターしたところで最初の審査である。
審査前の晩、気持が揺れる、なかには眠りの浅い人もいる。
仕事、学校その他、時間が来るまでなんとなく気持が落ち着かない。
基本、型、組手、特に組手では自分の身についた突き、回し蹴りを頭の中で既に相手に当てている。
あくまでも頭、想像の世界だけである。
 
人間勝手なものでどうしても自分中心に考える。
審査が始まる。
基本の技、少々ナーバスであったが、先生の号令で気合を入れて行くうちに調子が出て来る。
 
 
話がそれるが、気合を入れないとよけい硬くなる。
気合、声を出だす。
身体と精神、心がなごむ、身体と心の垣根がとれるのである。
一体感が出て来る。
自意識との戦いであり、稽古は自分との戦い、と言う一面を見せる。
 
 
話をもどす。
いよいよ組手の時間、待つ時間がもどかしい、また緊張感が出て来る。
動悸が段々と大きくなる。
相手と向かい合う。
何となく体が硬い。
頭の中では自由に動けていたのにおかしい。
突いて蹴る、ヒットする訳だが何と当たらない、受けられてしまう。
どうなってるんだ。
始まってまだ30秒も経ってない、息が苦しい。
相手の突き、蹴りが来る。
何と驚いたことに、相手の突きや蹴りがヒットしてきた。
ウーン。なんか夢から覚まされた感じである。
 
こう言うタイプとは逆に、100パーセントではないが自分の思ってたように動けた、技も出た、と言う人も勿論いる。
そう言う人はまだ壁にぶつかっていないのである。
 
 
さて夢から覚めた人である。
あれほど夢中になっていた空手の稽古。
仕事、勉強…等より重要な意味を持っていたのに自然と色があせてくる。
重要ではなくなってくる。
稽古の曜日になると、朝起きていかに稽古を休むか考える。
何とか自分を納得させる理由を考える。
昼が過ぎ、夜になる。
最初の頃は、なかなかいい理由が見つからない。
しかし何とかアレヤコレヤと口実を考える。
理由にならない理由をこじつけて稽古を休む。
その晩枕元に、先生、先輩、同輩の人の顔が、チラチラと出て来たり消えたりする。
稽古は誰の為でもなく自分の為であるのだが、なんとなく先生や先輩の顔が浮かんでくるのである。
なかには夢の中に出て来ることもあるとか・・・。
 
深川道場のK君、「お母さん頭が痛いの・・」と仮病を使い稽古を休む。
少しだけチクリと良心が痛む。
それでも眠りはすぐにくる。
ところが、夢の中に、眼鏡をかけた四角い顔、そうです、直井先生が出て来たのです。
「K君、どうしたの?・・・ウン頑張らないといけませんよ!」
K君次の朝、「お母さん、ボク夢にうなされちゃった」・・とか真偽のほどは分かりません。
 
これがもうちょっと上級の人になると話が違ってくようです。
この話も本当か嘘か分かりません。
あくまでも噂話と思ってください。
 
 
石川先生が何かの事情で稽古を休んでしまいました。
何の悩みもない石川先生眼をつぶった途端、鼾をかくそうです。
しかし、その晩は、戦国武将の面構え、鈴木師範が「オイ、石川・・・」出て来たのです。
思わず石川先生、ガバット、跳ね起きて正座をし「師範、申し訳ありませんでした・・・」とか・・・。
 
昔、練馬のマサ先生の夢の中には、よく私が出てきたようです。
これも本当か嘘か分かりません。
 
それでも、それが一回、二回と重なると、それほど刺激もなくなり、自然と道場の道のりが遠くなる。
夢も新しいゲームのことや、恋人のこと、先生先輩はどこか空の彼方に消えてしまいました。
これが最初の壁です。
 
 
 
この話まだ続きます。
きっと読んでいる人思い当たることがあると思います。
 
次を楽しみに、オス。

コメント (1) | 2011/02/10

エッセイ

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“一人稽古”へのコメント (1)

  1. 素敵なエッセイ楽しく読ませて頂いてます、まるで昔の自分の事のようです(今の自分かな)これからも楽しみにしてます。オス

    from 河辺 忠行(2011/02/15)

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