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国際大山空手道連盟 WORLD OYAMA KARATE ORGANIZATION

一人稽古 パート2

先週の木曜日に雪が降った。
今年3回目の雪である。
いい加減にしてもらいたい。
 
私の念力が効いたのか今日(2月13日)は嘘のように暖かい。
それも春を告げる様に空が薄く柔らかいブルーの色を見せている。
陽射しも身体を優しく包む。
散歩も気持がいい。
なんとなく春の気配を感じる。
 
さて、壁の話の続きである。
 
 
入門して3カ月ぐらいは熱に浮かされて稽古する人も、半年ぐらいになると、身体も稽古に慣れて来る。
最初のうちの2~3カ月はすべての動き・技が新鮮に感じる。
正拳の為の拳立ても、回し蹴りの為のストレッチも痛いし、きついがなんとなく強くなっていく道のりで、エキサイトを感じるのである。
 
浅く、と言うか、表面的に技の特徴が分かってくる。
なんとなく正拳も回し蹴りもこなせる。
見た目には技らしくなっているのである。
と同時に身体が稽古に慣れて来るのである。
本当は身体が慣れるまでは準備運動のようなものであるのだが、なんとなく空手の世界がわかったような錯覚をし始める。
その錯覚が壁をつくり出す。
 
この時期入門半年から1年、壁にぶつかるタイプに大きく分けて2通り{理由は探せばきりがない}がある。
その1は、稽古に飽きがくる。
その2は、自分の才能、身体に限界、もしくは空手が合っていないと感じるタイプである
 
勿論人にもよるが、結構この2つのうちどちらか、もしくはその両方を兼ね備えた理由が多い。
稽古に慣れが出て来ると、自然に新鮮味が薄れて行き、同時に稽古が同じ繰り返しに見えて来る。
半年~1年は技など繰り返し稽古しても表面的にしか分からない。
見た目には回し蹴りを蹴っているように見えるが違うのである。
回し蹴りが身体に入ってくると、相手により上段下段または中段と回し蹴りを出すことが出来るようになり、さらに突きから回し蹴り、受けから回し蹴りと回し蹴りの使いわけが完全ではないがみえて来る。
 
これが、半年ぐらいの時はただやみくもに上段ばかりを狙うか、馬鹿の一つ覚えで下段ばかり蹴る。
回し蹴りの技が分かったと言うが、技が浅いためその使い道をこなせないのである。
私の言いたいことは半年ぐらいの時は表面的な技の特徴を覚えた段階で、身に付けてはいないのである。
 
勿論なかには、ずば抜けた才能の人もいる。
ここでの話はその他大勢、一般の人の話である。
この時期は、技を浅く、表面的にしか稽古していないのだが、本人はもう分かったようになっているのである。
 
 
チョット話を変える。
タイガーウッズはどのくらいゴルフボールを同じクラブで打つのか、イチローや松井秀樹選手はどのくらいバットの素振りを繰り返しているのか?
それも何十年間、続けているのである。
・・・勿論プロの選手と比較するおかしいのだが、空手の稽古に入って、半年、1年で技が身体に入ってきたら天才中の天才である。
なんとなく技を覚えた、だけである。
 
 
話を戻す。
この時期、指導している先生や先輩も毎日同じことを指導してくる。
これは指導している者の責任でもあるのだが、とにかく毎回、同じ内容の稽古が続く。
飽きが出て来る。
自然と空手とはこんなものか、と誤解をする。
壁にぶつかる。
 
これは我々日常生活のすべてに言えることだが、同じ食べ物や、同じ飲み物を毎日繰り返していると味も分からなくなる。
飽きが出るのは当然である。
稽古も同じである。
 
余談だが、一般的に普及している現在の稽古方法、特に基本稽古は戦後、昭和の時代に定型化されたように思う。
勿論流派により異なるが大体同じように稽古をするようだ。
私はアメリカに来て初めて空手に目覚めた。
目覚めたとは、日本と空手道に対して畏敬の念が抑えようもなく沸いてきた。
こんなにも素晴らしい武道を生み出した国、これほど素晴らしい空手道とは今まで気が付かなかった。
もっと真剣に修行しよう、と決心したのである。
 
それまでは何の疑問もなく同じことを繰り返し稽古し、また指導していた。
とにかく文句を言うな、基本が大切だ!ただ黙って汗を流せ!こんな調子である。
昔の私のスタイルは、基本稽古は三戦立ちから手技の稽古を延々とこなす。
正拳から始まり受け、手刀と流れ、次に平行立ちから、蹴りの稽古に入る。
1時間ぐらいは普通であった。
とにかく延々と続くのである。
 
 
空手は社会の中で生きている文化である。
現在の様にIT革命、科学技術が想像を超えるほど発達した社会の人間と、私の生まれたTVもない時代{小学生4~5年の時に初めてTVを電気屋で見た}、勿論、携帯などは空想の世界である。
 
私の子供のころは一日の時間が、36時間ぐらい長く感じた。
今の一日は、12時間ぐらいにしか感じない。
全く違うスピードで時間が過ぎる。
アッと言う間に、1日、1週間、1ヶ月、そして1年と飛ぶ様に過ぎてしまう。
生活のスピード感の違いは、好むと好まざるとにかかわらず我々人間に強く影響する。
20年、10年前と今の社会では人間の感覚、性質がいくらか違うのではないかと私は思う。
 
まず忍耐力、辛抱する、耐える・・等の力が異なるのではないかと私は思う。
神秘的な技の説明は現在の情報豊かな社会では通じない。
うまく説明できないのだが、表面的と言うか、平面的な稽古では門下生はすぐ壁に突き当たるように思う。
それでなくても壁は自然に出て来る。
 
せめて一つ一つの技のポイントをいろいろな角度から立体的に指導することが大切な稽古であると考える。
流される、惰性になりがちな稽古では誰もついて来ない。
現在の空手家よりも、遠い昔の先人達は一つ一つの技を深く稽古したと思う。
 
稽古方法の話をすると長くなる。
結論から言うと基本稽古を考え直せと言う事である。
だから私はパーフェクト空手、空手教典1~4まで書いた。
 
 
話を戻す。
“壁に当たる”。熱が冷めて、飽きが出る。これは誰でもある。
この飽きが出ると自分の動き・技に疑問が出て来る。
そこに先生や先輩に自分の基本技、型などのミスを指摘されたり、組手の稽古で相手の技を貰ってしまったりした場合、よけいに壁が厚く高くなってくる。
そこで、もしかして空手は自分に向いていないのでは・・・、と考え始める。
丁度半年~1年頃、帯にして言うと黄色、橙色の時が多い。
 
私の経験から言うと、運動神経がいい技や動きの呑み込みが早い人ほど深く稽古をしたがらない。
広く浅く技を覚えたがる。
同じ技の稽古になると、すぐ飽きが出て壁にぶつかる。
ドンドン甘い囁き、口実が出て来る。
・・・今日は雨だから・・・寒いから・・・暑いから・・・晴れだから!?
・・・今日休んでも俺の方があの茶帯、黒帯より上手い・・・
こんな感じで繰り返し稽古を休む。
何でも広く浅くこなしているようだが、中途半端である。
広く浅く覚えても空手の技にはならない、すぐ消えてしまう。
 
ちなみに、私はこのタイプの人には余り技を教えない、時間をかけて性質を見る。
むしろいくらか鈍い人に私は時間をかける。
 
また話が逸れそうだ。
この2度目の壁はなかなか超えるのが難しい。
今でも一番頭を痛めているのが、この壁を如何に乗り越えさせるかと言う事である。
正直に言うと限度があるが、一つの答えとして、私の空手に対する姿勢、情熱、パッションを伝えパーソナルな人間関係を築くことが大切なのではと、思っている。
 
 
昔、先生に、「暑い日、馬を小川に連れていく、水を飲むか飲まないかは馬が決めることである。私は技を教える、身に付けるか否か君たち次第だよ!・・・」
こんな講話を稽古中によく聞いた。
思うにその通りである。
 
が、今の時代、少しは先生の指導方法にも工夫が無くてはいけないと、思っている。
私の言いたいことは、先生は空手に対する情熱、パッションが必要だ、と言う事である。
パッションがあると、自然、一人ひとりの個性や体質、長所短所を見抜くように努力すると思う。
指導している先生が惰性になっては、門下生は壁に潰されてしまう。
 
空手の稽古は自分の上達がなかなか見えないし感じない。
難しいが、自分を練る、強くするためには一つ一つの技を横に広げるのではなく、重ねていく、それもできるだけ力強く重ねていく。
だから、稽古に気合を入れろ!自分に対して気を入れろ!と言う事である。
気合が入った稽古は終わった後、心身ともに洗われるようである。
値千金である。
 
 
これは自信を持って言う事だが、その場、その時、という制約があるが、空手はすべての人のためにある。
すべての人間に向いている。
私は自分に対しても、またうちの、支部長、先生達に稽古に嘘があってはいけない、指導が惰性にならないように、言い聞かせている。
 
さてこの2番目の壁を何とかクリアした人は緑、茶帯まで来る。
ここまで稽古を続けて来ると黒帯が見える距離に立つ。
なんとなく黒帯が身近に感じだす。
しかし壁はまだ出て来る。
 
 
 
この話まだ続きます。
ここまできた以上必ず読み続けてください。
 
次を楽しみに、オス。

コメント (0) | 2011/02/19

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