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国際大山空手道連盟 WORLD OYAMA KARATE ORGANIZATION

一人稽古 パート3

急に陽射しが暖かくなった。
通う道のりにある山桜の枝に小さい花が付いた。
木瓜の花、水仙の花も元気がいい。
このまま春になるといい。
今年の冬はことのほか寒さが厳しかった。
地球温暖化もこれで解消したのかな?と思ったのだが、なんと深南部の気温とアラスカの気温が同じと聞いてがっかりした。
北極の失われた氷が戻ってくるかと思ったが、残念ながら氷は今も溶け続けていると言う。困ったものだ。    
 
そこで話の続き。
第2の壁を何とか乗り越えて、稽古を続けるタイプは空手に対して執着心が生まれて来る様だ。
その執着心の内容はいろいろである。
帯で言うと、緑か茶帯ぐらいまで来ている。
ここまで来ると、なんとなく自分の実力が感じられるようになってくる。
最初の壁に突き当たった頃、茶帯は遠い見えないところにあったし、黒帯は夢のまた夢であった。
それが、緑帯の人は、茶帯がすぐそこにあると感じる。
茶帯は、今は黒帯が見える、手の届く距離にあると感じる。
道場での組手でも自分の得意技が時々決まる。
それまでフルコンタクトの大会を観戦していた立場であった自分が、もしかして自分も大会に出場できるのではないか・・・そんな気が出て来る。
 
稽古にも熱が入る。
道場の行事にも積極的に参加する。
甘い口実を囁く亡霊も現れない。
道場へ行くのが苦にならない、むしろ気合が入る。
自然、道場での態度も良くなってくる。
基本稽古も型の稽古も気合が入る。
「オス」の返事も大きく力強い。
壁などは全く感じないようだ。
黒帯をとれる、と自信が出て来る。
空手の世界に入って、もしかして一番、勢いが出て来る頃ではないかと思う。
 
しかしここで小さい壁が出て来る。
緑帯、茶帯になると、先生の指導が一般の門下生と違っていくらか厳しくなってくる。
先生も帯の重み、責任を期待する。
基本の技も、一つ一つをチェックされる。
基礎体力も勿論注意される。
型などは、その意味を自分の組手に出すように指導を受ける。
ただ何となくこなしていたのではすぐ叱咤がとんでくる。
この時期がチョット長くなると消えたと思っていた囁きが出て来る。
囁きは目の前に壁をつくり出す。
 
ただこのレベルで壁に潰されたり、なにかの理由で道場から消えたりした人は、時期が来るとまた戻ってくる確率が高い。
思うに、何らかの事情で道場を去っても、汗を流した稽古の味が忘れられないのだと思う。
特に他流派に入門し黒帯をとっても、ワールド大山空手の黒帯と違う。
鏡を見る、なにかが欠けている、やり残したことがチクチクと自分を悩ます。
いろいろ考えるが勇気を出して、また門を叩いてくる。
勿論私は歓迎する、だが、白帯を渡し最初からやり直しをさせる。
前のレベルに戻ってきたような時期に同じ帯へ、またはその下のランクへ再審査である。
 
現在は、ファーストフード レストラン並みに空手の流派が多い。
街の角、角に道場があるようである。
私は、
「稽古は頭から入るのではなく、身体から入る。理屈を言うな、先ず汗を流せ!」と言う。
これもワールド大山空手の一つの理念である。
 
ところが巷の空手道場は、精神だ、心だ、礼節だ、汗をかく前に前触れが長い。
勿論すべて素晴らしい話であるが、肝心の自分を鍛え、練る、そこから精神の世界に入るという武道の本質を忘れている様に見える。
先生の道着もアイロンがかかっている様にピーンと決まっている。
汗の匂いもなく、何とかコロンの甘い匂いがする。
このスタイルとは逆に、ただ回し蹴り、ローキックにワンツーパンチをしたり、先人達が残した基本技、立ち、動き、組手に即つながらないと考える技や立ちは全て省略したり、基礎体力をバンバン付ける稽古、ウエイトとスクワットをしたり。
こんな感じのスタイルもあるようだ。
こういう道場で黒帯を貰ってもなんとなく物足りない感じがする。
だからまたワールド大山空手の門を叩くようだ。
 
断っておく、勿論これは私の勝手な想像である
ただ私のこれまでの経験から、何となく私はそう思う。
 
話を戻す。
この時期に壁にぶつかる人は、前にも言ったように、自分の基本技、型、組手を先生により厳しくチェックされる。
技や動きはその人の基礎体力に関係してくる。
技や動きにパワー、速さを付けるためには、基礎体力の稽古が必要になってくる。
その稽古は地味な稽古である。
そして食事、睡眠、飲み物、日常生活をコントロールして節制しなければならない。
それもコツコツと続けなければいけない。
技も動きも覚えた、知っている、恰好だけは見せられる。
基礎体力の稽古は苦手だ。気を抜く。
自然と壁にぶつかる。
また、このレベルになると稽古に慣れが出ているため、稽古中にどこで気を抜くか自然と分かってくる。
自然と稽古中に逃げているのである。
一番良く見えるのが技の元、立ち方にその逃げが出る。
チョット息が上がる稽古になると、腰が自然に浮き出す。
気合がスーと逃げるのである。
自分では逃げていると思っていないのだが、もう一人のズルイ自分がいて逃がしてしまうようだ。
この基礎体力をつくるのが苦手な人は、忘れていたと思っていた囁きがどんどん出て来る。
残念ながら、壁に潰される率が高いようだ。
 
しかし中には、先生の励ましや気合で、何とか黒帯まで来る。
ヤッター、鏡に映る黒帯姿の自分、ウーン決まっている。
サムライである。
私も黒帯を絞めた時は雲の上を歩いている様にしばらく感じていた。
世界が違って見えた。
壁など嘘のように消えた。
 
・・・ところが壁は消えていないのである。
それどころか前にもまして高く厚い壁を用意してチャンスを窺っているのである。
 
昔から良く聞く話に
「空手は黒帯をとってからが本当の稽古に入る」というものがある。
まさしくそうだと思う。
 
私は黒帯をとった時、道場の中でだけでなく外も闊歩した。
いっぺんに世界が変わったように見えた。
勿論それは大きな誤解で、すぐに現実の世界に戻った。
 
確かに黒帯をとってから本格的な空手の稽古に入ると私は思っている。
黒帯を締める時は、稽古を通じて自分の長所短所が分かる。
自分をもっと知る時期である。
それが稽古の課題を考え、味のある、深みのある稽古が出来る。
何故深みのある稽古が出来るかと言うと、黒帯を目指して一番稽古に徹したからである。
徹して稽古すると言う事は、自分にチャレンジして勝利を収めたことである。
空手の世界が深くなる。
深くなると言う事は、本格的に自分に何が必要か分かってくるのである。
空手の世界が見えて来る。
だからここから本当の稽古が始まるのである。
 
ところが、である。
この空手の世界が分かった感覚、読みが出来る勘、この状態、この域は、残念ながら稽古の量が落ちると消えてしまう。
勿論10人全部が全部ではないが、なかには茶帯から黒帯になるときに消えてしまうものもいる。
何か大きな目的を達成したように思う。
その喜び、感激が一週間、一か月と過ぎるうちに少しずつ熱が冷めていく、その熱が冷めるテンポで稽古の量が落ちて来る。
このタイプと似ているような人に、稽古の量は落ちていないのだが、惰性になって稽古してしまう黒帯も結構多い。
夢に見た黒帯をとった、空手の世界が分かった、と誤解してしまう様である。
稽古は、自分を練る、鍛える、だから息を上げる稽古が大切なのである。
稽古が惰性になると自然と逃げたり、息を上げる稽古を、避けるようになったりする。
 
黒帯になってじっくりと腰を据え、空手の稽古に入る。
そこから自分を磨き、練ってさらに上を目指す。
せっかく黒帯のレベルに立ち、技や読みが分かり始めたのに稽古を落とすと、その感覚、勘が衰えて来る。
ひどくなると消えてしまう。
 
表面的、浅い稽古では、その技や動きが止まってしまう。
止まってしまうから次の技も動きも出てこない。
稽古が同じことの繰り返しに感じ、次に慣れ過ぎて気合が落ちる、飽きがくる、稽古が惰性になる。
黒帯のレベルになると基本の技、型、自分の組手の長所短所が分かる。
ここから技や動きを深く稽古できるようになる。
深く稽古すると自然にその技、動きから、次の技、次の動き、が生まれ出て来るのである。
自然に次々と技が出て、動きが出て来る。
青空の中、雲の上を走っているように感じる。
空手の稽古の醍醐味である。
自分の空手を作り上げる。
それは自分との戦いである。
壁は誰かがつくるのではなく、自分がつくり出している。
 
 
・・・まだ話したい事があるのだが、長くなり過ぎた、今回で壁の話は一応終わる。
いつかまた話す機会があるだろう。このエッセイを読んでいて何か思い当たる節があったと思う。
どんなに、うまい口実を付けても自分からは逃げられない、とにかく前に出ることだ!
囁きが出てきたら、大きな声で気合を入れること。
 
さて、あと3回ぐらい、型、基本その一、をこなしてみよう、なにかが見えて来るかもしれない。
 
私も頑張る、皆も頑張ってください。
生きている事は素晴らしい、健康であることは一番の財産、幸福である。
だから生涯修行である。
 
押忍

コメント (0) | 2011/03/02

エッセイ

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