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国際大山空手道連盟 WORLD OYAMA KARATE ORGANIZATION

第13話 ムエンタイ、キックボクシング

ここディ―プサウスに夏の花、百日紅の花が咲きだした。
朝から猛暑が始まる。
気合を入れないと負けてしまう。
皆も元気に稽古に指導に励んでいることと念じている。
そこで今日は、暫く振りに昔話、ムエンタイ、キックボクシング話である

 

 

私の記憶は断片的である。
それでもある程度の形として心の片隅にそれなりの確りした輪郭を見せている。
飛び飛びのその思い出を頼りに私がムエンタイと関わり合った経験を話してみたい。
何時かは話そうと思っていたことである。

断っておく、これは全て私の記憶での話である。他人の記憶と違ってもそれは私の感知しないことである。
ただ私は歪曲も嘘も言はない。
重ねて言うが、これは私の正直な記憶での話である。
記憶と言う心の映像は時間の経過によって変化することもあるかもしれない、しかし中には時が過ぎてもより鮮明に甦る記憶もあるようだ。

 

 

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合宿場に行く前、確か先生の実家に寄ったようだ。 右から、黒崎先生、岡田先輩、藤平、私。

 

 

ムエンタイ、への挑戦はある日突然、立教大学裏のオンボロアパート群れの中にあった道場に舞い込んできた。
その頃、春山が去った後だけに、祭りが終わった後のなにか寂しさが漂う静かな道場に私には思えた。
先輩達の癖も知りつくしてしまい、燃えるような気合は波がひくように消えてしまった。自然道場に出る回数も減っていった。
稽古をサボった最初の頃は、寝る前にチラッと先生や先輩の顔が浮かんだが、日が経つにつれ心の葛藤も無くなった。
そんな時期にムエンタイの話が目の前に出て来た。
熱の冷めた道場にパッと花火でも打ち上げたようだった。
ムエンタイがどんな格闘技なのか私は全く知識が無かった。
先輩達も殆ど知らなかったようだ。
寸止めのカラテの大会は見たことがあったが、グローブ付けて殴り合い、蹴り合うなどとは知らなかった。
グローブを付けて殴り合うのはボクシングだけだと思っていた。
余談だが、実は一度だけグローブを付けてスパーリングをしたことがある。
中学2年生の頃だった。どうしてグローブを付けて殴り合ったか忘れたが、なんとなく貧相なジムの中の、リングの中で、始まった。
なんで憶えているかと言うと、ボコボコに殴られたからである。
相手はオーナーの子供で、それなりにボクシングの基礎が出来ていたようだ。
おとなしいやつだった。その頃私は悪ガキであった。
喧嘩にはそれなりの自信が有り、きっと彼をバカにしていたんだと思う。
グローブを付けて向かい合った、最初は私の方が優勢であった。昔からスポーツは何でもこなした。
ところが時間が経つにつれ、グローブが重たくなって構えた手が下がる。
パンチを出すも、スピードが無い、相手に簡単に読まれる。そこを面白い様にボコボコ殴られた。
倒されたか、相手が止めてくれたのか、憶えていない。おとなしい奴だったので、きっと途中でやめてくれたと思う。

 

話を立教大学裏のオンボロ道場に戻す。
故大山総裁が最初に野口氏の話をしたときの内容は良く覚えていない。
確か、タイの人に、日本の武道を馬鹿にされたとか、カラテ道をバカにされたとかそれで、意地になってムエンタイに挑戦してやろうと決意し、日本各地の空手道場を回ったのだが実際に突きや蹴り

を当てて稽古しているところは無く、頭を痛めていた。
そこに極真会の話を人から聞いて来たのだと、実際に稽古を見てこの流派なら行けると思った。先生是非やりましょうと、だいたい、こんな感じだったように思う。

 

ところが時間が過ぎると、故総裁がムエンタイとの対戦は新しいビックビジネスの話であるようなことを言い出した。
野口氏が「ムエンタイと勝負できるのは極真会カラテしかいない。あたらしく名前を、キックボクシングと命名してマスコミを使い国際的に広める。これは大変なビックビジネスになる・・・」こん

な事を時々話しているのを聞いた。
また、「野口は大変な人だよ、普通の人じゃないよ、話が何処に飛んでいくか解らない・・・注意しないと大きな怪我をするよ・・・」こんな話も出てきた時があった。
とにかく色々な思惑があったようだ、そこで故総裁が黒崎先生に任せることになった。
たぶん最初の晩、私と岡田先輩、藤平、中村氏の4人を選手に選んだ。

 

 

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鬼怒川で、憩う。 岡田先輩が何故か自分の足をかじりだした。

 

 

そんな感じでムエンタイへの挑戦が始まった。すぐに合宿することになった。
費用から場所、ぜんぶ黒崎先生が負った。色々な経緯があったようだが、合宿場所は、鬼怒川の黒崎先生の友人の家であった。
朝と午後色々な稽古をさせられた。
ムエンタイがどんな動き技を使うのか全然わからなかった。
とにかく力を付けるのと、スタミナ、グローブを付けてのファイトに慣れるため、グローブを付けて組手をやった。
蹴り技を使わないで、パンチだけの組手もやった。12オンスか15オンスか忘れたが構えたグローブを、顔面の前に持ってくると、グローブが大きいので顔が見えなくなった。それでも相手の良い

パンチをもらうと、食事の時に上手く噛めない事があった。

 

 

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毎日取りたての牛乳を飲んだ。一升瓶。

 

 

春山が去った後、ぽっかりと心に穴があいた。
その穴をムエンタイの話が埋めてくれた。
久しぶりに、稽古に気合が入った。
グローブを付けてパンチと蹴り技の組手になると、最初のうちは皆チョットまごついていたようだった。どうしてもパンチが大振りになった。
試行錯誤して行くうちに皆なんとなく慣れて来た。

 

合宿には色々な思い出がある、朝焼けを見ながらのマラソン、どのぐらいの距離を走ったか忘れたが、時間の間隔を取って一人ずつ走るのである。
運動会などで紅白のリレーの選手に選ばれたことがあるが、マラソンはテンポが全く分からなかった。私が先に走り、何分か後に忠さんが走った。
最初からガンガン飛ばして走っていたのだが途中で簡単に抜かれてしまい、皆に笑われた。
夕方前の庭で、左右の前蹴りから回し蹴りの稽古をしているときに黒崎先生が、「オイ、ちょっと蹴り過ぎる。その辺でやめとけ」と言われたことがある。

 

 

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黒崎先生の友人からの差し入れ、鶏を自家製のソースを使って料理。 忠さんと藤平

 

 

合宿での稽古はキツイとは思わなかった。
みんなそれぞれいろいろと工夫をしていたようだ。
突きや蹴りからまっすぐ入ると思わせて変化して膝蹴りに繋げる組手が得意だった。
相手ともつれた時には膝蹴りと肘打ちが自然に出る様に稽古した。
肘は袈裟から横から下からと、何とか自分で考え身に付けた。

 

 

合宿から帰り道場でお披露目となった。相手は私より背の高い茶帯だった。
技をかけ合っているうちにもつれた、そのとき自然に肘打ちが相手の顎に決まった。
相手がストーンと腰から落ちた。オウ―という声を聞いた。
故総裁が良くなっていると言ってくれた。4人とも気合が入っていた。

 

 

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合宿は厳しかったが楽しかった。私、岡田先輩、藤平。

 

 

ところが、予定の試合が延期になった。
理由は分からない。故総裁と黒崎先生が野口氏を「何を考えているのか、全く当てにできない人だ」話していた。

 

野口修氏とは数回会った。「みなさん頑張ってください、日本の武道の強さを、極真カラテの強さを見せてやってください。・・・」扇動するのが上手かった。
ときどき、我々凡人の頭では計り知れない大きな話を聞かされた。
最初の印象は凄い人だと思った。会う度に住む世界が違う人だと思った。

 

今でも確かな記憶として残っている機会が2回あった。
予定が延びて、また延びて、さらに延びた。なんとなくこの話が信用できなくなってきた。みんなの気合も落ちて来た。
黒崎先生もこの対戦は無くなるのではないか、と呟くようになった或る日、野口氏が彼のジムに我々を招待して本場タイのムエンタイの選手と手合わせをしたら、と言う話が来た。

 

黒崎先生は確か白いコロナという車に乗っていた。
先生の車で、目黒まで行った。住宅街にジムがあり、ジムは家の中に作られていた。
家の前が草か、芝になっていて、ストリートから玄関まで幅2~3メートルの歩道が出来ていた。途中に3段ぐらいの階段があった。
なかに入るとジムの練習生が我々を礼儀正しく迎えてくれた。
正面に向かって左の端に2畳か3畳ぐらいの流し場が更衣室になっていた。
ホースとタライが有った。サンドバッグが2本その並びに吊るされてあったように思う。
道着に着替えて身体を動かしていると、野口氏の実弟と言う人が挨拶に来た。
礼儀正しい人であった。

 

遅れて来た野口修氏が実弟の人と話しているのを見て驚いた。
何故かと言うと修氏が椅子に座っていた、そこに正座をするようにして敬語で話をしているのである。
「兄さん」とか「さん」付けで話すのはアチコチで聞いているが、「かしこまりました」とか、「はっ、そのようにいたします」とか「・・承っております」等と言う言葉がボクシングジムでそれも

本当の兄弟の間で交わされていると、時代劇を目の前に見ているような気持になった。

 

身体をほぐしながら待った。何と2人のムエンタイ選手{国際式のボクサーでもあると言っていた}食事の後か、楊枝を使いながら母屋の方から現れた。これにもビックリしたと同時にこの野郎バカ

にして・・・と思った。

 

チョット話を脱線する。
私が空手を修行するなかで、自分の心の中で勲章を自分にあげたことが4回ある。
後は常に反省、ミス、自己嫌悪、だけである。
勲章は心の奥深くしまってある。

 

最初の勲章はわが生涯のライバル春山に追いついた組手である。この勲章はやればできると言う自信をくれた。
2番目は故総裁にホントか嘘か分からないが、何度も君は天才だ!言われたことである。これは郷田兄も茂兄も聞いている。また私のいないところで話してくれたことも聞いている。断っておく、自

分では,天才等と断固として思っていない。
春山を追いかけて稽古に徹し、徹し抜いた結果、技や動きが自然に出た時、故総裁がオーバーに褒めてくれたのではないかと思っている。
身に余る言葉を貰った。
3番目は目黒ジムに行った時、最初に「オイ泰彦、君がやれ」と言われたことである。
先陣を任されたと思った。
4番目は極真会館の月刊誌であった「現代カラテマガジン」の中で劇画作家の故梶原氏と真樹氏、それに黒崎先生の鼎談があった。
確か世界選手権か全日本選手権が有った年のように思う。
古い雑誌は取ってあるのだがその号が見つからない。
その鼎談の中で黒崎先生が私の組手の型を、「誰でも最初の相手はかかった・・」こんな内容の話しをしてくれたことである。
身に余る言葉をもらったと思っている。
故総裁や黒崎先生に自分の組手の型を認められたことが嬉しかった。

 

話を目黒ジムにもどす。
こちらは緊張している。相手は楊枝を使っている。その違いはショックであり、気合が狂った。
相手の態度は全く我々を問題にしていない傲慢なスタイルであった。
極真会の道着を来て始まった。
軽くパンチを出し合った後、右の前蹴りから変化した回し蹴りで相手のテンプルを蹴った。中足である。
簡単に決まって相手が後ろのロープにもたれた、そこを右の外受けで相手の左手を引きつけるようにしながら、左の膝蹴りを水月に決めた。
相手が「ウッ」ともらしながら、吐いたのである。
この組手の型は私が得意としていた。昔の先輩達は皆この私の動きを知っていた。でも最初の相手には100パーセント決めた。
黒崎先生も呆れて笑っていた。
その後藤平が誰かとファイトをしたように思う。
最後は中村氏がフライ級の下のストロウ級の人を相手に蹴りなしでファイトをした。
忠さんのパワフルなパンチに相手の身体が浮いてしまった。チョット可哀そうだった。
野口氏もその実弟もバツが悪い顔をしていた。
今でもムエンタイの選手{国際式のボクシングの選手でもあると言っていた}が母屋の方から楊枝を使いながら何やら談笑して出てきた姿が思い出される。

 

その後、試合がいよいよ決まると思っていたがまた延びた。なんとなくこの話はなくなると思っていた。
稽古の熱も消えてしまった。
おふくろと二人の生活、経済的に言って厳しい毎日であった。
話がころころ変わるムエンタイどころではなくなった。
就職口を探して、道場にあまり顔を出さなかった。
黒崎先生も稽古をサボっても怒らなくなった。
そんな時期、また野口氏から全員にお呼びがかかった。
今度は確か新橋あたりにある中華料理店であったように思う。
試合が延びて、延び抜いたことのお詫びと今後の予定を話してくれながら、食事を御馳走しようと言うことだった。
そこで具体的な予定を話してくれることになった。時間どおりに我々は着いた。
野口氏はまだであった。何時も彼は遅れて来た。
黒崎先生を囲んで全く当てにならない人だ・・・等と話しているところに女性同伴で現れた。美しい人であった。
後で、先生があの人は銀座の超一流のクラブのママだと話してくれた。
その人がまたまた野口氏に殿さまでも扱うように世話をするのである。
正面から目が合うとあまりの美しさに圧倒されるような綺麗な人だった。
一体この男はなんでこんなに周りの人を教育しているのか全く分からなかった。
何時も腹がへっていたがその人が皿によそってくれるだけで感激して食い気がどこかに飛んで行ってしまった。でもパクパク食べたようだ。

 

食事前か終わった頃か、確かではないが、野口氏がおもむろにダンヒルのライターを出した。勿論私はライターのことなど全く分からない。
なぜダンヒルと分かったのかは野口氏が教えてくれたからである。
その時いくらぐらいする高価なものだとも教えてくれたような気がする。
何故覚えているかと言うと、そのライターを黒崎先生に差し出したからである。
勿論先生は辞退した。後で先生もらっておけば良かったのにと皆で言うと先生も「ウー、あの人からなにか貰うと、あとで高くつくからもしれない。だから貰わない方がいいんだ」と、そんなような

話をしていたように思う。
その時の綺麗な人だと思うのだが、その後、何回もTVや雑誌で見る様になった。
後で分かったのだが、驚いたことに直木賞を取った作家の山口洋子氏であったように思う。
なんか作詞もするとか、えらい才女である。
周りのケタはずれな才能のある人達から、野口氏は貴人でもあるかのように扱われている様に見えた。
全くこの人は凄い人なんだなーと感心しながらも、得体の知れない怪物のように私には見えた。

 

しかし、この凄い人の話は当てにならなかった。予定がまた延びた。
稽古など全く行かず私は就職活動に専念していた。年が越えた。思い出に残ったのは、鬼怒川の合宿と野口氏の秘書か、何だか分からない美しい人であった。

 

それでも黒崎先生と中村、藤平両氏がタイに行くと決まったと聞いて羽田に見送りに行った。岡田さんは確か来ていなかったと思う。
見送りの雑踏の中で、私は黒崎先生のそばにいた。
その時、故総裁が「君チョット」と黒崎先生の正面に来た。
「君、野口は必ず君に試合に出てくれと、言ってくるよ」
「はっ・・」
「君、絶対に試合はしてはいけないよ、野口の話に乗っては行けないよ」
私は今でもその時の故総裁の顔を覚えている。

 

黒崎先生は合宿でも色々指導してくれただけで先生の稽古はしていなかった。
その後も先生が道場で現役の我々と汗を流すことは殆どなかった。
故総裁は、野口氏の胸のうち、計算を充分に見透かしていたように思う。
昔、全日本か、世界大会かの時、館長室で{故総裁はその頃館長であった}勝負は、自分の土俵でするものだよ、人の土俵に上がる時は充分その土俵を知って経験することが大切だよ・・・こんな講話をしてくれたことがあった。
黒崎先生の試合をオンボロ道場で8ミリか16ミリか忘れたが、見る機会が有った。相手の肘打ちが先生の右目か左目の上に炸裂した。
正直に言って肘打ちを出さなくていい試合だった。
一瞬、野口氏の顔が脳裏を走った。相手の肘打ちは故意に出したように見えた。
羽田空港で出発間際に出た、故総裁の話がよけい強烈に思い出さ、心に残った。

 

先にも言ったが、何時かはこの話を何かの機会にしようと思った。
原稿を書きながら、昔のフルコンタクトの雑誌を読みなおした。1996年4月号NO、110である。
表紙のタイトルは、“不滅の沢村忠である”なかに野口氏の談話がある。
チョット長いが、引用させてもらう。
曰く「大山倍達と組んでキックボクシング協会を作って・・・外国選手は私が提供して・・日本選手は貴方が提供して・・・九分九厘まとまっていた・・途中であの人が{故総裁}「いやあ、タイ式

にはかなわない・・・極真会のメンツがかかっているから・・」と言うことで手を引いた。
続けて「・・でも野口さんこのままじゃアレだから、3人の選手を鍛えてやってくれ」その3人が黒崎、大沢{当時、本当は藤平}中村・・それでタイで試合をさせた。
・・・黒崎は負けたが2勝1敗で勝ち越したから、「よし、これなら日本選手を育成・・」とある。
恐れ入った。
故総裁と野口氏の席上に私が居た訳ではないが、故総裁がタイ式には、かなわない・・・等と言う訳がないし、鍛えてくれ・・などとも言う訳がないと思う。
黒崎先生、中村、藤平当時みな極真カラテの人であった。
野口氏に鍛えてもらった事は無い。
野口氏は色々な意味で、凄い人だと思う。
この後野口氏はキックボクシングを世に広めた。その功績は高いと思う。
私も一度だけ噂に聞いた、沢村忠の試合をTVで見た。
真空飛び膝蹴りが、華麗過ぎる様に決まって、タイの選手が倒れた。
その場面を見た時、なんとなく、馬鹿にされたように思った。
二度と見たくなかった。

 

黒崎先生は、日本のキックボクシングを世界に広めた人だと言える。
何といっても500年の歴史を誇るムエンタイのチャンピオンを破り、日本人のチャンピオン藤原を育て上げたのだから凄い。
そして小さな巨人と言われた、大沢{藤平}その他数多くのチャンピオンを育てた。
目白ジムと聞けば皆その選手に一目も二目も置いた。先生は格闘技界に残る金字塔を立てた。

 

最後にもう一度、断っておくこれはあくまでも私だけの経験でありその記憶である。この話には他人の意見は無用と考えている。

コメント (7) | 2011/07/04

ワンダフル空手

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“第13話 ムエンタイ、キックボクシング”へのコメント (7)

  1. 泰彦最高師範の生の声と伝説の春山氏の話など、すごく貴重です。 私は空手は習うことが出来ませんでしたが、空手バカ一代の中で、泰彦先生のエピソードが後半にちょっとしか出てないのが残念です。 OH! OH! KARATEもすごくおもしろく読ませて頂きました。有難うございます。

    from 長岡衡史(2011/07/18)
  2. タイ式の話、黒崎先生の話。涙が流れました。

    from むかしの空手少年(2011/07/29)
  3. はじめまして。大変興味深く拝見しました。泰彦先生のことは、空手バカ一代で、天才空手家として紹介されてあるのを拝見して、とても尊敬しておりました。当時、どのような思いで修行をされていたのか等、先生の人間味のあるお話に大変心打たれました。私は空手はやっておりませんが、先生が日本にいらっしゃれば、ぜひ、先生の空手を教わりたいと思いました。先生、これからもいろんな興味深い話、きかせてください。楽しみにしています。

    from 濾胞(2011/10/21)
  4. あのー皆さん恐ろしいほど貴重すぎる程貴重な話なんですけど。。。  なんか大山道場時代の話や猛者の話を聞くと涙がでそうになりますね。  極真最強神話がまだ生きていたころでさえあった大山道場最強説。
    このころのこれまた貴重な写真の皆さんを見ていたら、今の強いと言われている全ての格闘選手より強いかもしれないという予感を感じました。
    泰彦先生ありがとうございました。
    しかしちょっとこれもったいないくらい皆さんみてませんね。

    from 稲谷惣一(2012/02/18)
  5. 非常に貴重なお話ありがとうございます。
    久々に静かに興奮したまま一気に読んでしまいました。
    特に大山総裁と野口修氏との関係などは現在の格闘技界でも綿々と続いてる問題みたいでーーー
    あと偶然ですが一週間前に大沢食堂へ初めて行き、厨房に立たれている藤平氏を見て説明し難い思い~もちろん声掛ける事などもってのほか、私は黙々とカレー並辛をカウンターで食べていましたが(笑)
    iPhoneからのコメントで文章も拙く申し訳ありません。
    当分はこの興奮がとりついたままになりそうです(^-^)/

    from 古賀太(2012/03/20)
  6. 私も昔ムエタイをやっていました。
    貴重な写真を見せて頂きありがとうございます。
    初めて見る写真ばかりです。

    from ミット鈴木(2013/07/30)
  7. マス大山空手スクールOB(真樹道場5級)で、伝統派の協会5段・全空連3段、
    柔道初段の修行者です。現在のフルコン系列には相手のローだけを警戒して
    下だけ見て組手をする人も多く、上段突きが得意のこちらが顔面なしルールに付き合っているのに・・・と言う場合は多かったです。
    でも泰彦師範の御著作は勉強になります!天才の動きには学ばせて戴いています。

    from サザン松濤館館長(2014/08/21)

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