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国際大山空手道連盟 WORLD OYAMA KARATE ORGANIZATION

第17話 一騎当千のカラテ家

昨夜は凍えてしまうような雨が降っていたが、今日は快晴である。
3月になった。今年は例年にない寒さが続く。
朝外に出ると寒波で身体が硬くなる。歩き始めると手袋をはめた指先に痛さが出る。
寒さのせいだ。雑木林を抜けて陽のあたる場所に出る。
頬を刺すような寒気の中に朝陽がそれでも柔らかい温もりをくれる。
小路の脇を覆っている枯れ葉の中から野草の緑が見え始めた。
よく見るとタンポポの花が小さな群れをなして咲いている。
鮮やかな黄色の花がもうすぐ春だと言っている。いいものである。
本当に季節があると言う事は良いことだ。

 

なんとか冬の合宿をこなした。
一番の収穫は城西大学空手部の主将荒木から三浦を紹介された事である。
稽古の前か後か忘れたが、広間の中央で城西大学の空手部の連中が談笑しているところへ私が顔をだした。
とにかく極真総本部の指導体制を充実させることが私の頭に何時もあったから、機会あるごとにアチコチと目を光らしていた。
荒木から三浦を最初に紹介された時、直感的にこの男は将来本部指導員になれる風格を持っていると感じた。なんとか口説かなくてはいけないと思った。

 

ここまで書いてきて色々な雑用に時間を取られ、一先ずペンを休ました。
その間、3月19日から26日まで日本での春の講習会。

 

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姫路講習会集合写真

 

 

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東京講習会集合写真

 

 

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講習会は「技と脚の運び」みんな頑張った。

 

 

日本出発前、外はめっきり春らしくなっていた。
吉野サクラも陽のあたる所は花がほころびて来た。
3月27日、無事講習会を終え帰ってくると、サクラは満開であった。
咲いたサクラを愛でる間もなく4月2日からLAの娘夫婦の家に一週間出張である。
帰ってくるとサクラは散って葉桜になっていた。

 

今やっと落ち着いて稽古に指導に戻れた所である。
そこでワンダフル空手17話の続きをなんとか終わらそうとデスクに座った訳である。なんとか、昔の事を思い出そうと頭をひねっているところである。
今バーミンガハムは素晴らしい天気が続いている。
部屋にいるのがもったいないぐらいの春の陽気である。
毎朝散歩に出る何時もの小路、裸木だらけの雑木林が若葉に変わり紺碧の空の下,朝陽に映えてキラキラと輝いている。
手でそっと触ってみたくなるような柔らかい、ソフトな新緑が視界全体に溢れている。
小路の両脇にはワイルドフラワーが色とりどりの花を咲かせている。
気持が和み、何となく弾んでくる。春の力を感じる。いいものである。
部屋の中で書きものをしているのがもったいない感じである。
集中しなければと思うのだが気持が外へ外へと言ってなかなかペンが動かない。

 

話を戻す。
私が総本部に戻ってから黒帯の出席がよくなってきた。
どう言う経緯か忘れたが黒帯だけの稽古日があってもいいのではないか。
今でもそうだが、なんか黒帯になると稽古の内容が落ちたり、偏った内容になりがちである。
あの頃いい感じで極真本部が動いていった。
一番の原因は黒帯が多数稽古に参加し始めたからである。
そこである日、故総裁が「黒帯研究会」という名の稽古日を新設しようとなった。
我々は「黒帯研究会」を「帯研」という風に読んでいた。
確かではないが土曜日の午後か、日曜日の午後にあったと思った。
この話の為に郷田兄にアラバマから電話を入れた。
お互いに歳を取ったのか記憶が曖昧である。
それでも彼の頭には日曜日とあったようである。
「黒帯研究会」名前が理知的である。
武道の深遠な奥儀の洞察のように聞こえる。
ところが内容は基礎体力の充実の様な稽古であった。
特に思い出されるのは5本蹴りである。
前蹴り、回し蹴り、後ろ蹴り、前蹴り、回し蹴りの順{時々順序が変る}だったと思う。
稽古は2時間だったと思った。その5本蹴りが延々と続くのである。
郷田兄があの稽古で健康になったと言うぐらいの量である。
ある日故総裁が突然「君達、動きに円を描くように・・・」と訓話があった。
それ以後、型{平安}の稽古では回転の動きがはいった。
円を描く動きと、回転はおなじなのか?ちょっと疑問が出たが、「オス」の気合いで回転しまくった。
型が終わり「直れ」の号令で不動立ちになるのだが皆眼を回していたようだ。
稽古の後、外を歩きながら、道で人とすれ違う時、誰かが回転した。
「オッやるー」と、みんなで爆笑した。
後は天井からつるしたテニスボール、高さはまちまちでそのボールを蹴るのだが時々故総裁の気分で前蹴りになったり、回し蹴りになったり、後ろ回し蹴りなった。
ところがあの頃後ろ回し蹴りを蹴れるやつがいなかったと思う。
なんとなくこんな感じではないか、と言うスタイルでみんな蹴っていた。
なんかゴツイ顔のバレーダンサーが空手着を着て首を振りながら回って脚を上げている格好である。
それでもみんな頑張ってなんとか脚にボールを当てようとしていた。
身体の硬い奴は、顔は吊るされたボールを睨んでいるのだが、如何せん脚が帯の高さ位しか上がらない。
そこで跳び中段、もしかして跳び下段後ろ回し蹴りである。
そんな奴がいたことは確かである、凄い技である。
最後の方は脚が上がらないので頭突きでテニスボールを当てていた。
跳び頭突きである。まさに気合、根性である。

 

故総裁は技術的なアドバイスはしてくれなかった。
黒帯研究会、名前は厳かしいのだが稽古の内容は、エンドレス、ワセワセと5本蹴り、回れ、マワレ、どんどん回れ、跳べ、トベ、高く跳べ・・・であった。
ただ故総裁の稽古の合間の講話が面白かった。
講和の内容は海外での武勇伝、昔の武道家の逸話などであった。

 

始まった当時は故総裁もよく指導をしてくれた。時々故総裁は道着を着ているのだが、頭に故総裁のトレードマークの手拭を付け、口には爪楊枝を見せていた。
我々と一緒に汗を流すのではなく、神棚の横の座布団に座って稽古を指導していた。
なにか美味しい食事を済ませて来た様な雰囲気であった。
こちらはみな腹を空かしていた。うらめしかった。

 

三浦師範の話に戻る。とにかく三浦が帯研に来る度に、口説いた。
帯研にはそのころ城西空手部から三浦のほか吉岡、須藤、丸銭など顔を出していた。
それぞれ個性があったが、三浦と同じように目についたのが吉岡だった。
吉岡も三浦と同じぐらいに背が高く身体も良かった。
三浦と同じように技も鋭かった。
なんとか本部の指導員にと、一度銀座で飯を食いに誘った。
場所は銀座である。ところが二人とも凄い格好で来た。
三浦はサンダル、吉岡は長靴を履いてきた。確か快晴な日和であった。
私は二人の格好を見て、ウーンと唸った。
多分その時だと思うが、二人に今の世の中、東大出でもサリーマンで出世するのは、なかなか難しい。型にはまった生活より海外出て冒険をする方が魅力があるのでは、などと色々と説得しように記憶している。
二人は人の話を聞いていたのか、よく思い出せないのだが、とにかくよく食べてよく飲んだようだった。豪傑である。
飯も食わし、ビールも飲ましたが残念ながら確答をもらえなかった。
いよいよ卒業の時期に来た。
その年の本部の鏡開き、稽古の後二階の道場で宴会となった。
簡単な食べ物と酒、ビールが出た。三浦を隣に呼んだ。
飲ませながら、「今ここで指導員になるかならないか返事をしろ」と迫ったらし。
これは前に三浦に電話で聞いた。
そこで三浦が酒に酔った勢いで「オス。やります」と返事をした。
これで本部の指導体制がさらに充実してきた。

 

あの当時三浦と同じように私の両腕になって活躍してくれたのが岸だった。

 

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三浦も岸も“一騎当千”のカラテ家である。

 

 

三浦が本部に正式に指導員なった時、確か岸は故総裁の命で台湾に指導しに行っていたようだ。ようだ、とはその辺の記憶が確かではない。
台湾から帰って来て岸は実家の山形、たしか新庄に帰る事になった。
東京で働きながら好きな極真空手を稽古していたいのだが、岸は長男であった。
実家を継がないといけない様な事情があったように記憶している。
勿論故総裁はなんとか岸を本部の指導員にして将来海外に出て極真空手を広めてもらいたい希望であった。
岸の本心もきっと極真空手の稽古を続けていきたかったように思う。
残念ながら岸は実家の山形の新庄に帰って行った。
しばらくして、どの位経ったかわからないが、或る日故総裁に私と郷田兄が呼ばれた。
「君達、岸をどう思うかね、岸はカラテ家として才能がある。このまま山形で終わるのはもったいない。岸の家に行って両親を説得して、なんとか岸を本部に戻すよう話してきなさい」確かではないが、こんなような感じで命を受けた。
さっそく我々は山形に向かった。
正直に言って岸の説得は難しいと最初から思っていたが、郷田兄と二人で旅に出るのが嬉しかった。
確か新庄の駅で岸に迎えてもらったようだ。
私と郷田兄がわざわざ山形まで来た事に岸は感激していたように記憶している。
その晩さっそく、岸の父親と弟たしかヤスノリという名前であったように思う。
私と郷田兄の4人で話し合いが始まった。
岸の父親は我々が何しに来たか既に読んでいた。
我々の説得は全く通じなかった。
話の途中、岸が父親と弟を相手に口論が始まってしまった。
そのことは良く覚えている。
我々がきた事で親子が口論することは予想外であった。すぐに我々は説得を諦めた。
指導員の説得は失敗に終わったが、岸が我々を近くの温泉に招待してくれた。
多分、「月山」と言っていたように思うが、確かではない。
思ってもいなかった温泉の旅、感激である。
宿の食事も美味しい山菜が豪華にならび、素晴らしい休息になった。
岸が飲みながら、山形新庄の素晴らしさを、とつとつと語っていた。
全部は思い出せないが一つだけおぼろげに記憶に残っている話がある。
山も野も全て雪に覆われ新庄の冬。
そんな雪の中、兄弟二人で仕掛けを作り、野ウサギを生けどりにする話が面白かった。
岸の父親への説得は失敗に終わったが、岸の温かい、もてなしに感謝した。
極真会館に戻り、説得が失敗に終わったと報告をすると、故総裁は残念がっていた。

 

山形から帰って来て1~2週間か、もしかしてもっと日にちが過ぎたか確かではないが或る日、たまたま私が若獅子寮に泊まった。
その次の早朝、寮のドアを「ドンドン」と勢いよく叩く音で起された。
まったく「誰だ!こんな朝早く・・・ふざけやがってこの野郎」と思ってドアを開けると、なんとそこに岸が立っていた。
「岸です、帰ってきました」腕には道着だけ抱えて立っていた。
その姿を見た時、思わず涙ぐんでしまった。
その時の場面は鮮明に覚えている。岸の空手に対する情熱に心を打たれた。

 

断っておく、三浦も岸も今では立派に武道家として活躍している様である。
素晴らし事である。
私が、私の空手の修行の道程を語る時に、ある時期に二人と汗を流し酒を飲みその他いろいろと過ごした思い出は私の空手の財産である。
こう書いてきて今思い出した事がある。
岸の唄う民謡は聞いてる目の前に、歌詞の中の情景が自然と浮かんでくる素晴らしものだった。

 

極真カラテの「縁」で三浦と岸に出会った。
「縁」それ以上の関係でもなければそれ以下の関係でもない。
私が二人を指導したとかそんなことは毛頭考えていない。
むしろ三浦と岸に教わった事の方が多いかもしれない。

 

オス

コメント (2) | 2014/05/23

ワンダフル空手

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“第17話 一騎当千のカラテ家”へのコメント (2)

  1. 先人の立ち姿に学びます。押忍

    from Sensei F(2014/06/16)
  2. 極真時代のいろいろな人達について、お話しを聞かせて下さい。

    from 佐藤 勝弘(2015/02/07)

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