夏の空は猛々しい。入道雲がむくむくと青空を浸食していく。
ぎらぎらと容赦なく陽の光が辺りを白光のせかいに塗りかえるようだ。
天も地も燃えているようだ。
気合がないと暑さに負けてしまう。
そこでワンダフル空手19話である。
今回は極真総本部指導員裏話である。指導体制も充実して毎日が順調である。ときとして全てが順調であると、生活のテンポに余裕が出る。
余裕が出ると珍事が起きる。
今日は極真総本部指導員裏話を挙げてみる。
裏話の最初は昼寝である。
極真会館の4階は故総裁の住まいであった。
3階には会議室と館長室があった。道着をストックする細い部屋もついていた。
2階が本部道場であった。
1階にも道場があったが、ちょっと変わった道場であった。
写真撮影のためのスタジオに使えるようにアレンジしてあった。
壁と床板が白いペンキで塗られていた。
1階の入り口のすぐ横が指導員室でその隣が事務所、ロビーには壁いっぱいにガラスで作られた展示ケースがあり、中に歴史を語るトロフィー、写真いろいろと展示されていた。
指導員室にはインターホーンがあり館長室から呼び出しがあると階段を走って館長室まで上がる。一気にあがる。歩いて上がることはない。
若獅子寮は丁度会館の裏に位置していた。2階建である。
朝礼が朝の8時半だった様に思う。
最後の稽古が夜10時近い。長い、なが~い、一日である。
季節が春から初夏、夏になると昼飯を食べた後、眠気が襲う。
稽古も厳しいが、この眠気と闘うのも大変厳しい。
しらぬ間に、うつら、うつらとしてしまう。
朝の稽古、昼間の稽古が済むと4時ごろまで時間が空く。
指導員室で顔を見合わせている。いつも同じ顔である。
話も殆ど同じ内容である。そこである日、一計を考えた。
考えたと言うより閃いた。変わりばんこつづ昼寝をしようと・・・。
勿論みんな賛成である。異議などとなえる訳がない。
そこで何所で寝るかという事になった。裏の寮に寝ると故総裁から呼び出しがあった時ちょっと時間がかかり過ぎるかも、・・・。
昼寝の寝ぼけ眼で、あわてて走って、ころんだり、自転車、自動車に頭突き入れたりしたら大変だぁ。
忍びの術!?で、1階の道場に寝ようという事になった。これが上手くいった。3階の館長室からインターホーンが入る。
「オス、三浦師範ですか、オスここにいます{隣の道場で黙想しております}などとは言わない。オスすぐに館長室。分かりました。オス」でインターホーンをきる。すぐ隣に行って、「三浦師範、館長室です」三浦、ガバット起きて「オイーショウ」と気合を入れる。頬をパチ、パチと叩いて階段を駆け上がる。
館長室では「オス、オス、オス」で終わりである。
うまくいった昼寝が出来る。最高である。ところが夏になると、蚊が出る。
これは確かではないがたぶん私のアイデアと思うが、蚊取り線香、を炊けと言ったようである。
故総裁は常人離れした触覚をお持ちである。
ある日、私と誰かが蚊取り線香を炊いて昼寝をしていた。
故総裁は秘密の情報では4階の住まいで休んでいるという情報。
ヨシ蚊取り線香をたいて昼寝だぁ。私ともう一人、誰だったか思い出せないがとにかく二人で先に昼寝することになった。
昼飯をバッチリ腹いっぱい食べて夢路へと旅に出る。
すべて順調でハッピーである。
ここからは私の想像である。
故総裁も美味しい昼食を済ませて本でも読みながら休んでいたと思う。
ところが静かな安息の世界に何かが匂ってきた。
普通の人ならきっと気が付かなかったかもしれないのだが、故総裁である。
「う~ん、なんだぁ、この匂いは・・・・」せっかく休もうとしていたタイミングに異臭が襲ったのである。大変である。
それも故総裁自ら4階から1階まで下りて来たのである。凄い気合いである。鼻をひくひくさせながら、ノシノシと階段を下りて来たのである。
ちょっと想像をしてもらいたい・・・。
ロビーに座っていた内弟子もきっと、ぼけ~としていたと思う。
そのぼけ~とした内弟子の前に故総裁が突然出現したのである。
玄関番をしていた内弟子、昼寝をしていた私に連絡するタイミングが無かった。
故総裁が「う~ん」と呟いて匂いのありかを探し当てたのである。
一階の道場のドアを「ガラガラ」と開けたのである。
中からもうもうと蚊取り線香の煙が一階のロ―ビ、事務所、指導員室まで広がったのである。・・・こっぴどくお説教をもらった、いろいろと長いお説教になったが、今でも覚えているのは「・・・自分に厳しく、人には優しく・・・」というお言葉である。
その事件の後一階の道場での昼寝は出来なくなった。残念である。
しかし我々の底知恵も捨てたものでは無かった。
アイデアが浮かんだのである。やっぱり寮で昼寝をしようとなった。
問題は館長室から呼び出しがくる。そこで指導員室から走って寮に連絡したのでは遅い。会館の指導員室からロープを寮の便所まで繋げてその先に空き缶をぶら下げる。忍び返しのロープを利用する。
館長室から呼び出しが来る。と同時にロープを引っ張る。
「カラン~カラン~」と呼ぶ出しの鐘がなる。
私だけでなく、三浦、岸、あとの内弟子達もその素晴らしいアイデアに眼を輝かしたと思った。アイデアが誰か出したか確かではない。
よう~し、今度はうまくいく。喜べ、交代で昼寝が出来る。
暫らく、このアイデアの昼寝は成功したのであるが、世界のマス大山、故総裁には通用しなかったのである。
或る日、故総裁が館長室の横の小さい窓から{その窓はいつも使わずに、閉まったままのはずであった}開けて外を見たのである。
なんで見たのか解らないが視線が空から下に移ってしまったのである。
なにか不思議なロープが一階の指導員室から裏の寮まで繋がっている。
「ふ~ん、なんだぁ、あのロープは・・・」
インターホーンが「ピーン、ポーン・・・」と無常に鳴る。
「オス~ナニナニ{名前}です」
「指導員、内弟子、全員、館長室まで、館長がお呼びです」
「オス」返事をした内弟子君急いでロープを引く。
「カラン~コロン~」「オッ、急げ~」
故総裁は、デスクに両肘を付けて、いくらか下に視線を向けながら左手は机の上にそのままおき、右手の指でよく額を軽くたたく。その姿勢からゆっくりと顔をあげて全員を睨む。
全員頭をいくらか下げて、有罪の宣告を受ける訳である。
そこでまた「己に、自分に厳しく・・・」のお説教が始まる訳である。
終わるまで、みんな館長室の床板を見つめているのである。
心のなかでは反省をしているのか、それとも次の昼寝のアイデアを考えているのかそれは誰にも分からない。
私は、なんで故総裁が普段使わない窓を開けたか不思議でしょうがなかった・・、そんな事を考えながらお説教を聞いていたようである。
忍び返しのロープが見つかってから、暫く昼寝のアイデア浮ばなかった。
それでもみんな、それぞれ工夫をして昼寝をしていたようである。
次の話は昼寝と頭突き、である。
ここからの話は昔三浦師範から聞いた話である。
その話を思い出しながら、私の勝手な想像を入れて話してみよう。
極真会館総本部にそのころからポツポツと内弟子希望者が現れた。
そんな中に東谷巧がいた。
東谷、私、ニュージランドの支部長ジャービス、そしてコリンズ、その隣がオランダから来た黒帯、名前を忘れてしまった。前の人は会館の職員、名前を忘れた。
故総裁の方針で、たしか3カ月は会館の掃除、使い走りだけで稽古は許可しなかったようである。遠い昔の時代と同じようにまずその内弟子の人間性を見る。それから稽古に入る訳である。
東谷はよく私が指導しているクラスを階段から覗いていた。
稽古がしたくてウズウズしていたようである。
東谷は極真の内弟子になる前に既に他流派の稽古をした事があるように見えた。身長も私よりいくらか高く身体が柔軟であった。
特に運動神経もあり器用だった。器用だったが技や動きを深く身体に身に付ける様では無かったように思う。とかく器用な奴はすぐ、次の技次の動きと気持が動くようである。
稽古を許可されてから、東谷は基本も型も組手もすぐ上達した。
何故だか分からないのだが一番故総裁に可愛がられたように思う。
ここからは、前にも言ったように三浦の話と私の想像を入れて話す。
岸も三浦も内弟子のコリンズや東谷をよく面倒を見て可愛がった。左からコリンズ、岸、東谷。
なにかの問題で三浦と岸が館長室でお説教をもらっていた。
故総裁がいつもの調子で「・・もっと自分に厳しくしなければいけない」と話しながら、秘書に「きみ、東谷を館長室へ」と命じた。
もちろん東谷すぐにすっ飛んできたのである。
ところがなんと東谷の額に小さくまるい赤マークがついていたのである。
昔私も高校時代、先生に見つからないように教科書に隠れ机に額を付けて寝て、このマークをつけたことがある。
明らかに東谷、指導員室のデスクで昼寝をしていたのである。
オデコのまるい赤マークは昼寝のトレードマークである。
私の勝手な想像で言えば、三浦も岸も同じように思ったことだろう。
「東谷、オマエ馬鹿だなぁ~昼寝のマークがオデコに付いてる。よけい怒られるぞぅ~」と心の中で二人が思ったかどうかは確かではないが多分こんな感じであったと思う。
ところが驚くべき事が起こったのである。
故総裁は我々凡人の表も裏もすぐに見抜いてしまう洞察力をお持ちである。
まさに昭和の武蔵で{観の眼強く見の眼弱く~5輪書}である。
その故総裁がなんと東谷のオデコのマークを見て「オッ、君は偉い!昼休みも頭突きの稽古をしていたのか・・・」
三浦も岸も、唖然として口を大きく開けて仕舞ったことだろう。
きっと眼も大きく開いたに違いない。
「エッ、館長{故総裁}まさか冗談でしょう・・頭突きですか!・・エッ」と、思わず抗議の言葉が出そうになったのではないかと思う。
それだけ東谷は故総裁に気にいられていたようである。
その東谷徐々に力を付けて来て全日本、世界大会などでも結構活躍した。
映画、“地上最強の空手”の中でも何所かの海岸でヌンチャクやサイを演武していた。私が渡米する日、多くの人が羽田空港に来てくれたが、そこで東谷が私が出発手続きのため入管室に入った時、急に大声で泣きだしてしまったのである。
周りの人も驚いていたようだった。
私は特別に東谷を可愛がったわけでもなかったので、私も驚いた。
それから私が渡米した後、毎年秋の全日本選手権や世界選手権の時、TV解説や演武などで来日するようになった。
確かではないが何年かすぎたある年、館長室で故総裁が「君~、東谷が居なくなったよ・・・」とさびしそうに話された。
東谷が、カラテ道に徹して精進していたら立派なカラテ家になっていたと思う。
なまじ器用で、いくらかの才能があったのが別な道を選ばさせたのかも。
残念である。
この極真総本部指導員裏話は続きます。
予定としては9月の初旬に出稿の予定です。
乞うご期待。
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すべての項目に入力してください。
いつも、ありがとうございます。押忍
from Sensei F(2014/09/18)毎回楽しみに拝読しています。
from ミット鈴木(2014/10/02)40年前にタイムスリップしたようでワクワクしながら読ませていただいてます。
東谷巧氏は私が一番影響を受けた空手家の一人です。
当時は今の様に簡単に動画が見れませんでしたので
写真で氏の技を推察して稽古したものです。
氏の相手の回し蹴りの左足底足でストッピングする技をマスターするのに大変苦労した事を思い出します。
当時本部道場に通っていた友達から東谷氏は泰彦師範の空手に心酔し多大な影響を受けていたと聞いています。
羽田空港での出来事も分かります。
確か昭和53年と思いますが私が高田馬場で一人住まいしていた頃東谷氏が極真を離れ高田馬場の酒店でアルバイトをしていて何回か見かけたことがあります。
歩くのが信じられないくらい速く、歩きながら人ごみの中でフットワークの稽古をしているようでした。
私もそれを真似し歩きながらステップのスイッチの練習をしました。
懐かしい思い出ばかりです。
東谷氏は20年以上前からデンマークで福祉関係の仕事をしながら空手を指導しています。
4年前に自分の流派の心武道を立ち上げたそうです。
YOUTUBEで氏の型。約束組み手を見れます。
ミット鈴木さん
from shihan T(2014/10/10)コメントありがとうございます。
東谷氏がデンマークで福祉関係の仕事をしながら空手を指導しているとの事を
知りうれしく思いました。
これからも極真総本部指導員裏話は続きます。
ご期待下さい。
from 最高師範
押忍!40年前の懐かし話お伺いできて、ありがとうございます。3つ上の東谷先輩には可愛がっていただきました。マガジンの空手バカ・最終回。「東谷たちはアメリカに旅立っていった。」・・本部の近くの僕のぼろ下宿で・巧先輩と一緒に読んで、「ありゃ僕は誰?」などと大笑いしていました。
from 極真58(2015/05/31)巧先輩の馬場の酒屋当時も・なぜだか渋谷の喫茶店で2人でお茶していたら・偶然大山館長がいらっしゃり、「ありゃ?何してる?」としかられました。巧先輩が・緑帯のチョウ君とやって・・その後翌日の大会を棄権した時も・・立教大学の空手武道場をかりて・巧先輩と僕の二人で稽古して・・僕が弱かったから・先輩も弱くなっちゃったかな?などと反省もしておりました。
僕自身現在は・佐藤先輩の佐藤塾の最初の師範代だった原田君(僕と同い年:長野善光寺裏の飯綱高原に20年ほど前からこもり・修行しております)と・・「60になったら勝負しよう。」などと励まし合っております。
巧先輩の・娘二人に囲まれたふにゃけた写真も・かなり前に郵便で送られてきていました。
先生。・・懐かしい話・お願いいたします。
40年前に・NZに指導員としてまいり、・・その後・中村忠先生が極真会館を離れられ・NZの支部が中村先生につき・中ぶらりんになってしまった自分です。
僕は郷田師範代の頃に・他流派から入会の人間。目白ジムの先生からもマージャンで・「俺から上がるのか?」と小突かれ、芦原先生からも・ボコボコやられていた者です。よろしくお願いいたします。押忍!・・失礼いたします。
極真58さん
君のような読者がいて非常にうれしいです。
お互い稽古頑張りましょう。
最高師範
from Shihan T(2015/06/23)いや 懐かしい限りですね。私が10代の頃に地上最強の空手で元本部の
東谷巧先生の存在を知りました、もう格好よくて憧れの空手家でした。
私もその後21歳で本部に入門させて頂き、ゴットハンド大山総裁を初め
松井章圭先輩、七戸先輩の面々がいらっしゃいましたね、本部で2級まで頂き
89年 松井先輩40人の昇段で挫折しました。
そのご10年のブランク後極真系にて初段を頂き今50才で空手家を続けて
おります。当時は東谷巧選手は!どこえ?空手界には、いないのかな・・?
など噂もありました。でも嬉しいです!
東谷巧先生は今もなお、空手家として健在であり!やっぱり本部魂です。
from koba(2015/12/13)とにかく空手界も変わりました、稽古方も変わりハードからライトへ!
でも、やっぱり昔の20年前の極真空手は大好きです。押忍 失礼します。