早春の御慶びを申し上げます。今年も素晴しい一年になることをお祈り申し上げます。
昨年から世界は大不況の嵐の中にあるようです。
どのニュースを見ても暗い厳しい経済の話のようです。人それぞれいろいろな問題を抱えているものと想像します。
経済界のことは、私にとってはまるで大海原にポーンと投げ出され、サテどちらに泳いで行けば安全なのか・・・、そのような解決できない問題です。
ただ自信を持って言える事は、どんな世界にあっても健康が一番大切である、と言う事です。
私が空手の稽古に夢中になっていた頃、西池袋の周辺はまだ戦後の深い傷あとが少し残っていました。
池袋の駅を西口に出ると、現在のような高層ビルはなく、トタン屋根のマーケットが広がっていました。
道場は立教大学の裏のボロアパートの中でした。
道場に通うのは、そのバラック造りのマーケットを通って行くのでした。
帰りも細い地下のトンネルのような通路を歩いて行きました。
2畳や3畳位の広さの空間にいろいろな怪しげな店が出ていました。
そんなマーケットの中に蕎麦屋がありました。かけ蕎麦が確か15円だったと思います。
育ち盛りの私はいつもお腹を空かしていました。
お金はいつもありませんでしたが、時として10円、20円のお金があると、蕎麦屋に寄ります。
寒い冬、葱と七味をたっぷりと入れ食べました。
鼻水を垂らしながら、フゥフゥいいながら食べました。
一口二口食べると蕎麦の汁が身体中に広がり、腹の底から暖かい幸福感が湧いてきます。
こうして書いている今でもその時の味が甦ってきます。
私の言いたいことは15円で幸福になれたと言う事です。
人間健康でありさえすれば幸福になれるのではないか、と言う事です。
巨万の富を持っていようと、重い病に罹っていたら果たして幸福か?ということです。
ワールド大山空手の皆さん今年も大いに稽古に精進して健康になって下さい。
私も稽古に指導に努力精進する決意です。
今年から毎月エッセイをwebサイトに載せるべく頑張ります。
さて、新春第一弾です。
審査は2回落とされたけど、後年私はベストスチューデントになりました。
黒帯審査
私の黒帯審査について。
私は何故か2回黒帯審査を落された。
最初の審査前夜、自信はあったがやはり眠れなかった。
昔から体育の時間は私のためにあるように思っていた。
自分としては、頭はそれほど良いとは思っていないが悪いとは思っていない。
いやむしろ頭はいいほうだと思っている。
ただ机に座って勉強するのが苦手だったようである。
学校でも国語、算数、科学など、そこそこの成績を収めていたと思う。
ただ成績の順序は上から数えるよりも下から数えたほうが早いようであった。
よく人が言う、
「あの人は生まれながらにして数学の才能がある、とか音楽の才能がある・・・・等。」
私の場合は生まれながらにして体育の才能があるように思う。
これでも謙遜して言っているのである。ホント! 体育の時間になると自然に私の身体から輝きが出るように感じた。
先生の目線の中にも
「大山君、君が頼りだよ」
と言っている様であった。
体育の時間は、先生と私の絆はどの生徒よりも強く結ばれているのであった。
その時間だけである。しかし美しい限りである。
話を戻す。
私が黒帯の審査を受けた時、マス大山はセンセイであった。
道場が、組織が段々と大きくなるにしたがって、館長になり総裁になった。
私が空手を始めたのは私の兄達の説得である。
最初に正拳や蹴りを教えてもらったのは私の兄、博である。
博は長男である。博兄は総裁のところに内弟子になった。
そのころまだ総裁は道場を持っていなかった。
博兄に言わせると、総裁が兄貴を口説いたらしい。
その時の台詞が
「君、これからは海外にドンドン出なければいけないよ。
狭い日本から出てアメリカ、ヨ—ロッパ、わかるかなー。
先ずは台湾のジャングルで空手の映画を作るから君に出てもらいたい・・・」
少々オーバーに言うと、まだTVも電話(勿論携帯ではなく、指でダイヤルを回す電話である)も東京に数えるほどしかなかった時代である。
飛行機に乗って海外に行くなどと話されたら、宇宙にでも行くような感覚であったと思う。
兎に角、兄にしてみれば途方もないスケールの大きい世界を話してくれた、と言っていた。
ただ何故急に台湾のジャングルが出てきたのか分らなかった、と。
それでも兄は総裁の話の中に魅入ってしまったと言っていた。
今兄はハワイに住んでいる。もうすぐ80歳になる。
このエッセイを書くので博兄に電話を入れた。
「オス、兄貴元気?先ずは明けましておめでとう御座います。元気ですか?」
「オゥ、まだ生きているよ!」
これが私の兄の新年の挨拶である。いつもこの台詞が出る。
生きているから話せるんだロー、と出かかるが、ここは謙虚に
「今年も頑張って生き続けてください!」
と真面目に言うと、
「ガハハ・・」
と笑い出す。
「兄さん、マス大山(兄貴に大山総裁と言っても通じないのである。だから、大山先生かマス大山になるのである)と、どんな稽古したの?」
「ウーン、巻き藁突いたり、蹴ったり、なんだか知らないダンスのような型をやったりしていたなぁ」
「フーン・・・ダンス・・それもしかしたらピンアン(平安)と言う型じゃないの?」
「オッ、ソウだ。ピンアンだよ」
「兄貴が最初にオレに教えてくれたのがピンアンの型だったよ、ほかには?」
「ウン・・・バーベルを上げたり、それとよくマス大山と相撲を取ったよ!・・がハハハ」
「エッ、相撲とったの、どうした?強かった?」
「ウーン、オレより背が低かったのに力がすごかったよ、厚い胸して押しても動かなかったなぁ」
その頃総裁は道場を持っていなかったから、稽古は目白の総裁の庭でやった、と話をしていた。
もう一つ面白いエピソードがある。
約30年前、確かな年は忘れてしまったがハワイで日米対抗戦があった。
ハワイ支部ボビー・ロウの主催であった。
その時期、既に兄の博はハワイに永住していた。
久しぶりに兄弟3人で食事をしたり飲んだりと楽しい時間を過ごした。
我々は確か「カイマナ ホテル」に泊まったと思った。
総裁も同じホテルである。
ある日、午後の稽古が終わりホテルの一階のテラスで飲んでいた。
博兄も一緒であった。
椰子の木の向こうには紺碧の海が広がっている。
兄貴は無口であるが、それでもポツリポツリと話していた。
丁度そこに総裁が参加した。
我々はビールを飲んでいたが、総裁はパパイヤかパイナップルジュースを飲んでいたと思う。
話を簡単にする。
総裁が博兄を見て
「キミ、極真会館総本部の評議委員にならないかねー?」
兄貴が微笑をたたえながら、
「ウーンそれは名誉なことですね。」
総裁がガハハと豪快に笑いながら
「キミ、誰でもなれる訳ではないんだよ、政界財界の中で極真会館総本部の評議委員になりたいと申し出る人が一杯いるんだぞー」
我々は二人の会話を黙って聞いていた。
博兄が顔色を変えず、
「ソーですか。評議委員ね・・・、フーン。
なってもいいですけど、一体いくらぐらい給料くれるんですか?」
そのとたん、総裁が顔を真っ赤にして
「キミ、お金は君がもって来るんだよ!」
博兄が
「エッ!私がお金を出すんですか?・・」
ソー言って、今度は無口な兄貴が
「ワッワッワッ・・・」
と身体全体で楽しそうに笑い出した。
つられて我々も笑い出してしまった。
そのあと、総裁が苦虫を噛み潰したような顔色で
「ウーン分かっていないなぁ・・」
と呟いて部屋に帰られた。
ハワイでも優等生でした。
左から大山倍達総裁 ボビー・ロー支部長 大山茂総主 大山泰彦最高師範
みんな、若かった。
面白いことに、博兄はプロレスの力道山のところにも1年ばかりいた。
兄弟の仲で一番背が高く、身長が180センチ近くあった。
身体も大きかった。
都立九段高校から立教の英文科に進み、学生時代はアメリカンフットボールをやっていた。
アメリカではフットボールの選手がプロレスに入るのは沢山いたが、日本ではうちの兄貴が最初であったようだ。
スタートした時は、日刊スポーツなどに採り上げられたようだ。
上段左 立教大学アメリカンフットボール部 兄 博
後列左から3人目 遠藤幸吉、4人目 力道山、5人目 元横綱東富士。前列左2人目 帽子に手をやっているのが兄 博。
力道山が相撲取りの頃に、親父の知人がタニマチだった。
力道山のジムに行くようになったのも、その人の紹介であった。
東京の人形町にあった力道山のジムで面接をした。
面接も力道山がジロっと睨み、ただ一言
「オイ、ヤル気があるか!」
と言われ、兄貴が
「ハイ」
と答えて決まったようだ。
秘書の吉村と言う人に、力道山が
「大山の面倒を見ろ」
と言ったそうだ。
それからすぐにジムで他のレスラーと一緒に稽古が始まったと話していた。
一緒に練習したレスラーは、東富士、遠藤幸吉、駿河海、豊登、ユセフ・トルコ、阿部修、等。
博兄は、約1年間全日本の各地を2回巡業した後、結婚と同時にビジネスマンの道に進路を変えた。
私は4人兄弟の一番末である。
身体も一番小さく一番苦労をしたようである。
兄達に言わせるとこれには異論があるらしいが、しかし自分ではそう思っている。
人間みな時には自己中心に考えるものである。
しかし私の年代では私は背も高いほうであった。
詳しく博の話をすると話が長くなるので、簡単に言う。
私の死んだ親父のところに若い総裁が一時出入りしていた。
総裁は私の父を「先生、先生」と呼んで、母を「姉さん」と呼んでいた。
父は事業家であった。
家には若い人がいつも出入りしていた。
青雲の志のある若い人を父は好んで援助していたようだ。
書生のような人が家には何人もいた。
その中に“ソウ ネイ チュウ”という人がいた。
私にはあまり記憶がないのだが茂兄に言わせると、京都大学に籍を置く生物学の学者で、
且つ京都の武徳会に席を置く剛柔流の先生であったそうだ。
その人の弟子のような形で若い総裁がいたように聞いている。
茂兄が「だから昔から極真会には“三戦”“最破”転掌“の型が在る」と言っていた。
そんな私の親父との縁で、マス・大山との関係ができ、博も茂も最後に私も空手を始めた訳である。
勿論我々兄弟それぞれの入門の動機は違っている。
特に私と兄達ではいささか異なる。
さて私の黒帯審査である。
高校2年の時が最初の黒帯審査であった。
自信は溢れるほどあった。
基本の技はすべて、正確にクセもなく身に付けていた。
型も表情も豊かに気を入れてこなせた。
特に決めのポイントは気合を激しく意識した。
組手は一番得意としていた。
2〜3手強い先輩がいたが別に怖くは無く、いずれ倒すことも時間の問題と思っていた。
その頃の審査は、基本すべて、型、移動稽古、約束組手、基礎体力、最後に自由組手であった。
正確には覚えていないが、私の最初の審査の時は私の他に4人いたようである。
約2時間ぐらいだったと思う。
基本から型、私はすべてパーフェクトにこなしていった。
基礎体力も抜群である。
細い角材で作った馬を飛ぶのに2、3人は飛べなかった。
私は「待ってました」と鼻の穴を大きくし、正面から飛び前蹴り、飛び横蹴りと格好つけて飛んだ。
自由組手になった。
その頃の組み手は、金蹴り有り、目つき有り、顔面への突きは当然有り、掴んで投げ有り、道場の端にあるウエイトに相手をぶつけるのも有り(黙認されていた)。
兎に角相手を倒すのに制限はなかったようだ。
頭突きも当然みな使っていた。
今でも鮮明に思い出すのは、総裁が
「君、両手両足がなかったら、歯で噛んで倒すんだよ、ワカルカネー・・・」
凄いと思った。思わずカチカチと歯を噛んだ。
ヨーシ、手も足も出なかったら最後は噛みの技だと思った。
勝負は非情であり厳しいのである。
相手を噛んでも許されると思っていた。
さていよいよ組み手である。
| 第2話 黒帯審査 No.2 »
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拝啓
from ミット鈴木(2013/07/29)昔、茂師範の幼馴染の池袋の山口先生からお兄さんが居てプロレスをやっていた事が有ると聞いていました。
写真迄見せて頂き感動しています。
日本空手協会5段・全空連3段・マス大山空手スクールOB(真樹道場5級)・柔道初段です。
from 本多正昭(2014/08/20)『パーフェクト空手』には学ばせて貰っています。
興味深くエッセイを拝見しています。