いよいよ深南部アラバマに出発
アラバマは猛暑が続く。家から一歩外に出ると、熱気が身体にまとわりつく。
暑さだけでなく湿気が強いせいか空気が重く感じる。
朝の散歩、ステラもハナも歩き始めて10分ぐらいで、息が上がってしまうようだ。
別にステラとハナが私に話かけるのではなく、口を開けハーハーと息が荒くなり、歩くテンポが落ちてくるからである。ときどき恨めしそうに私を見る。
そこで私が目線に力を込めて、息が上がってからが本当の稽古がはじめんだ!気合を入れろ!・・・俺も頑張る、と言う。ホントである。
残暑の厳しい中、朝の散歩私も気合を入れないと何かと理由を付けてサボってしまう。
しかし正直に言って、ステラとハナの気持ちがよくわかる。
と言う訳で、暫くご無沙汰したワンダフル空手第24話である。
NYで約2週間ぐらい兄貴の世話になった。勉強になった。
兄貴の道場で見たダイナミックな指導、稽古の内容、黒帯、茶帯などアドバンスの門下生のレベルの高さに驚いた。刺激が強すぎるぐらいに感じた。
東京の極真会総本部の道場が世界で一番レベルが高いと自負していたので、自尊心が傷ついた。その自信と言うか傲慢な気持ちが兄貴の指導、稽古中見えた門下生の高度な技や動き、レベルの高さに圧倒されてしまい、揺らいでしまった。
気持ちを締め、初心に帰って気合を入れなければいけないと本当に心から思った。
私は気合の塊となった。眼が三角四角になり肩が張り胸を突きだし兄貴の顔をみて「必ず極真カラテを深南部に発展させる」と啖呵を切った。
そんな気負い過ぎている私を兄貴は笑いながら、とにかく体に気を付けて頑張れと空港まで送ってくれた。
写真:ホント若かった
東京から6月30日夕方6時過ぎに無事帰る。バーミンガハムは既に真夏になっていた。
夏の日が西に傾き始めていたが、外はまだ明るさを残していた。
気合いを入れて、久しぶりにステラとハナを連れて散歩に出る。
雑木林の中はセミの鳴き声でいっぱいである。
バーミンガハムは、5月の末から6月になると合歓木にピンクの花が咲く。
我が家にはないが、近所の家には紫陽花が結構多く見られる。
大きな青い色の花がなんとなく日本の梅雨を思い出させる。
バーミンガハムには梅雨はない。
7月に入ると合歓木も紫陽花も花の盛りを過ぎてしまう。
かわりに夏の花、百日紅の花が白とピンクの花を見せ始める。
今回も日本の旅はいろいろと印象に残る出来事があった。そこで支部長合宿である。
6月23日木曜日 早朝に出発。
アトランタから予定通り24日金曜日午後4時過ぎ成田に無事到着。
何時ものように郷田師範、直井先生に迎えてもらう。二人とも元気そうでよかった。
近況を語り合う。ホテルにチェックイン。夜は竹寿司屋で食事、美味かったー。
25日土曜日 支部長合宿初日である。
予定表通りに石川先生とマサ師範が朝10時に迎えに来る。
稽古は1時スタート、早めの昼食をとる。サバの味噌煮 キンピラ、こんにゃく、お新香、なめこの味噌汁あまり食べ過ぎると眠くなるので抑えて食べたが、相変わらず忍耐力がなく、がつがつ食べてしまった。二人とも心配するような眼つきをする。
「君達日本に来る楽しみの一つは日本食を腹いっぱい食べることなんです。だから我慢しようと思っても、ついつい食べ過ぎてしまうのです。分かってください。」声を出さずただ目線だけで交わす会話である。
「ウ~ン、食べ過ぎた・・オイ 昼寝」と今度は声に出して言ったら二人が「オス」と泣きそうな顔色を見せる。
君達、大人の冗談も分からないのか・・・でも本音を言うと正直昼寝がしたい。
春になると、明け方から小鳥の囀りが聞こえてくる。
長閑なリズムにも聞こえるのだが、まだ夢の中を彷徨っている貴重な時間「君達ちょっと静かにしなさい」と言いたくなる。
歳を取ると睡眠が浅くなる。なんだか知らない夢を溢れるほど見る。
それでいて、起きると何の夢だったか思い出せない。
自分の身体が見えない、拍子で変化しているようである。
それでも朝の散歩は気持ちがいい。見るからに柔らかそうな、新緑。
そっと吹き抜ける風に踊らされて、サワサワと朝陽を照り返す。
アラバマは春爛漫である。
しかし、これからロシヤ遠征である。
きっとロシヤはまだ冬の名残が残っている事だろう。
寒さが残る国への旅は気合がいる。しかしロシヤの門下生が待っている。
まだまだ身体は動く。喜んで、スキップでもしながら旅に出よう。
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日本から帰ってくると、桜は散り始めていた。
家の前庭の枝垂れサクラの花びらが玄関の階段に散っている。風流である。
朝の散歩、小道の両わきもワイルドフラワーが咲き乱れている。
林の中に野生の藤の花が枝先に絡まって薄い藤色の花を見せている。
春は力をくれるようだ。しかし今回の時差はなかなか取れない。
と言う訳で春の講習会である。
3月16日出発。早朝5時半カールが迎えに来る。いつものようにアトランタから成田まで空の旅は順調であった。
3月17日午後3時過ぎ成田空港到着。
直井先生、郷田師範に迎えてもらう。驚くなかれ今回は直井、時間どおり。
ホテルに向かう途中、思いがけない昔の友人の長棟からのメッセージをもらう。
この欄にエッセイを連載しているが、昨年“ベストフレンド力男”と言うエッセイを書いた。その中で、力男と明大の仲間4人でダンスパーティーをやったことに触れた。長棟は、その時の一人明大のクラスメートであった。
私のエッセイをうちの門下生以外の人が読んでくれたことに、ちょっと驚きと、同時に感激である。早速電話を入れる。50年以上も話してない友人である。名前も顔も正直に言ってすぐに思い出せなかったが、話しているうちにおぼろげながら姿かたちが浮かんできた。スレンダーな身体、ダンスパーティーを組んだ4人の中で一番、男前だったようだ。今風に言うとイケメンであったように思う。そういえば、立教大学のボロアパート内にあった極真会の道場にも稽古を見に来たことがあったよう思う。彼もどこかの空手流派の黒帯だったと記憶がよみがえってきた。まだ現役で活躍しているようなので、嬉しく思った。
何とか再会をしてみたい。
3月18日金曜日 午前中はゴルフ。泉会長がメンバーの名門戸塚カントリークラブである。郷田師範それとマサ師範の親父さん高橋氏の4人であった。
マサの親父さん、株式会社オリオン化学の社長を務め、極真会館の役員でもある。凄い肩書を持っている。
快晴に恵まれて楽しいゴルフであった。
ゴルフの内容は書かないし、教えない。
夜は松井館長が、兄茂総主の偲ぶ会を設けてくれた。郷田師範それにマサの親父さんも出席してくれた。食事をしながら兄貴の昔話で盛り上がった。
最初は松井館長の話から始まった。
世界選手権の前にNYの兄貴の道場に稽古に行った時のストーリーであった。
渡米する間に充分稽古を積んで、どんな稽古でも自信があったようである。
ところが最初に兄の指導を受け終わったとき、稽古の内容と激しさがまったく違ったレベルの厳しさであった。いつもなら腹が減って来るのだが、クタクタになり、飯どころではなく、ただ休みたいだけと言っていた。
チャンピオンになれたのも兄の稽古指導のおかげだと話していた。
胸につまらせる話である。
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MY Brother 総主大山茂
私の兄、総主大山茂が逝ってしまった。
2月14日バレンタインデーの早朝、私の携帯が鳴った。
珍しい、電話に出ると茂兄の嫁さん、パトリシヤからであった。
電話の向こうで泣いていた。茂兄が亡くなった。暫く声が出なかった。
気持ちを落ち着かせて話し始める。
真夜中に呼吸困難に陥り、救急車で運ばれたそうである。
そのまま帰らぬ人となった。
簡単な葬儀を家族だけで済ました。
“大山茂総主を忍会“を3月4日金曜日に開いた。
世界の各地から問い合わせがあり、息子の徹盛りも、私もあわてて対処することになる。当日は起床4時半、朝一番の便で、アラバマからNYに行く。アラバマは水仙の花、木蓮の花が咲き乱れている季節だがNYは雪であった。
夜の6時から8時の予定を、5時から9時、4時間に延ばす。
息子徹盛りが会場に4時に着くと、外にはすでに列ができていた。
日本、ヨーロッパ、中東、カナダなど各国から花輪を送りたいと連絡がある。会場が花輪だけで埋ってしまう恐れがあり、気持ちだけを受け取り丁寧に断る。ところが花輪を断ったのだが、なぜか、当日どんどん花輪が届いた。
徹盛りの簡単な、思い出話と、私が2度ほど兄の人柄、思い出話をする。
20年、30年、40年以上の長い兄との師弟関係の人が集まり、小学生の同窓会のような雰囲気になった。
兄もみんなが昔話に花を咲かせているのを喜んでいるように感じた。
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だいぶご無沙汰してしまった。季節が変わり年も変わってしまった。
一月二十日、冬の曇り空はなぜか気分が落ちる。朝の散歩それでも気合を入れてステラとハナを連れて外に出る。雑木林の中、くすんだ緑色の野草が、枯葉で覆われている。
両脇の木々も、すっかり裸になって、細い枝を風に震わしている。
みんな、じっと我慢して、何かに耐えいているように見える。
静寂の世界である。だがそこに力を感じる。
ワンダフル空手だいぶご無沙汰してしまった。
いつも心の中にあるのだが雑用に流されてしまった。
正直に言うと雑用に流されたことは確かだが、本当は怠慢によることもある。
しかし昨年の晩秋は旅が多かった。10月、11月と続けて日本への旅、12月は家人とLAにナント11日間の旅であった。
これは新記録である。まさに強化合宿の毎日であった。
暮れから正月の賑やかな気分が取れ始めた。そろそろ気合を入れて稽古に指導に専念しなくてはいけない。と言う訳でワンダフル空手第23話である。
私のアメリカ行きが決まったと同時に磯部のブラジル行も決まった。
極真総本部での私の役目も一段落した。後任のチーフインストラクターには三浦が決まり、岸、東谷、コリンズ、など一騎当千の黒帯が若獅子寮で生活していた。
帯研も常に20人近く出席していた。
いつもみんな熱のこもった稽古で激しく汗を流していた。
時として総当たりする、激しい組手の稽古もあったが、みんな助け合い和気あいあいとした雰囲気が道場内に溢れていた。
あの頃の極真総本部は盤石な指導体制が出来上がっていた。
私が居なくとも全く心配なかった。私の仕事は終わったのである。
このさきは極真カラテの看板を背負って海外に出て、自分の可能性にチャレンジする時期が来たのである。既に30歳を超えていた。
今おいてチャンスはもう来ないと思った。
この極真の世界大会の観戦記、予定としては昨年の12月上旬に載せることになっていたのだが、いろいろ事情があって遅れてしまった。
テレビで既に極真の世界大会の激戦が放映されたと、ある支部長が言ってきた。
この観戦記を参考にして見るといい勉強になると思う。
今回の来日は極真会館主催の第11回全世界空手道選手権大会と極真会館創立50周年記念式典の出席である。
私と総主を松井館長が招待してくれたのである。
残念ながら兄総主は体調の調子が良くないので、私だけの出席になった。
日本に着いたのが11月19日であった。
空港にはいつも郷田師範と直井先生が迎えに来てくれるのだが,今回は郷田兄大会の準備やらで、迎えに来られないと事前に連絡があった。
直井だけが迎えに来てるはずであったが、・・・ロビーは閑散として誰も声をかけてこなかった。
「アレ、もしかして日にちを間違えたのか~、俺も歳だからな~、ボケたのかなぁ~・・」と、一瞬あせりが出た。
とりあえず直井に電話をすることにした。しばらくして直井が出る。
「もしもし、オイ、今空港だけど、お前、迎えに来ないの?」
「オス、最高師範今バスです。もう少しで着きます~」と囁くような声。
と言いう訳で、また待たされたのである。やってくれるよ、うちの大幹部。
待つこと約30分、直井いつものユニホームに長方形の顔、汗をかきながらロビーを走ってくる。「オス、最高師範、早かったですね~」
「君ねー、私が飛行機のスケジュール決めるわけ?デルタ航空は私のプライベートな会社じゃないのよ、ボーイング777の運転、じゃなかった操縦、できるわけないでしょう・・・君はミスターコンピューターでしょう、チェックすれば到着時間分かる訳でしょう」
直井ただ「オス、オス」と言いながら、細い柔和な眼をパチパチと繰り返す。
成田からスカイライナ―に乗る。いつもは郷田兄がいるので直井はただ横で聞き役で終わりなのだが、今日は私と二人だけである。
じっと無言で直井の顔を見る。直井、無言に耐えられないのか目線がアチ、コチに忙しく動く。それでも黙って直井の顔を見つめていると、直井の額から汗がタラ~、タラ~と流れた。ホント直井は優しい。だけど当てにできない。
無事ホテルに到着。何時もの角部屋にチェックインして、すぐカッパを着て軽いジョギングに出る。直井に「御役目御免」と告げると、満面に笑みを湛え「オス、失礼します」と飛び出ていった。
窓から直井の姿を見つけると、余ほど嬉しかったのか、スキップをしていた。
次の日11月20日、それから三日間、朝から夕方まで観戦したのであるが、正直に告白すると、時差でボウーとした頭の状態での観戦となって仕舞った。
毎日激しい試合の連続である。気合を入れて観戦しているのだが、選手には申し訳ないが、最終日になるころは、選手と同じように、私もスタミナが無くなくなってきた。
先ずは新年の挨拶、Happy New Year 、明けましておめでとうございます。
門下生の皆様の素晴らしい年になるよう心から祈念します。
昨年の暮れからLA、ロスに行っていた。
今回のエッセイは新年の挨拶とその物語である。
我が家では一年おきにアラバマとロスに家族全員がクリスマスの時に出来るだけ都合を付けて集合することになっている。
今年はLAの娘夫婦の家に全員集合となった。
いつもはクリスマス直前から約一週間の予定なのだが、今回は11日間の長い旅になった。
12月18日早朝5時出発である。
それも車でロスまで、片道三日間かけての旅である。勿論帰りは飛行機である。
ロスで仕事をしている息子ザックの車が、調子が悪くなってきたと、昨年の夏ごろニュースが入る。
そこで家人が自分の車を息子にクリスマスのプレゼントと言い出したのである。
私が慌てて「あの~、ですね~、ザックはもう大人ですから自分で何とかするのではないでしょうか?」と婉曲に家人さとす。
家人いくらか冷たい目線を向けて「エリカ、エミリーの二人の娘にはザックの倍以上の学費が掛かったのではないですか、それにエリカもエミリーも車をしょうちゅう事故って保険代もバカにならない位使いました。
ザックは事故一つも起こしませんでした。一度駐車違反のテケットだけです。二人の娘に比べると依怙贔屓です。車ぐらいどうって事ないでしょう、貴方、男でしょ!ケチケチしないの~」「お~う」と思わず漏れた。もの凄い気合いである。
しかし私も喰い下がったのである。
「あの~ですね~、我々はどうするんですか?・・・車一台で!?」
「交代で車を使いましょう、それに道場まで走ったらいいじゃないですか、何時も貴方が言っているじゃないですか、Just Sweat、気合を入れてきましょう」
「う~ん」と唸りながら、私がモゾモゾしながら何とか説得しようと考えていると、すかさず「もう決めたことですから、私一人で運転していきます」
「は~、一人でアラバマからロスまで、ですか?あの~どれ位かかるんですか?」
「三日間あれば大丈夫です。貴方、もしかして忘れているかも知れませんが、結婚したら、アメリカの各地だけでなく、世界中の都市、名所を見せてやる・・・といったセリフ、覚えていますか?」
「はあ~、そんなこと言ったようですね、・・・でも日本に三回ぐらい、ギリシャにもそれからハワイにも4~5回行きましたよね」
「貴方、ハワイはアメリカですよ」
「はい分かってますが、何となく外国のような気になりませんか?そうそうバハマにも3回ぐらい行きましたよね。バハマは確か外国ですよ」
・・・まったく落語みたいな会話になってしまった。
ここで家人が本当に一人で車をロスまで運転していったら家族全員の風当たりがハリケーンとなって私に襲ってくる。
男気を出して「君は私が守ります。二人で笑顔で旅をしましょう」となった。
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10月18日2015年、全日本選手権大会、素晴らしい快晴である。
会場にいつもより早く出る。
中央のマット、左右の端のマットで子供たちの熱戦が繰り広げられていた。
郷田師範も私と一緒に観戦する。今大会はロシアからも選手が出場した。
いつも海外に出て思うのは空手のレベルが上がっているといことである。
とかく日本の流派は閉鎖的な面が出る。
うちも然りである。海外の空手家は概ねオープンである。
自然と眼が肥えてくる。技や動きも他流派のいいところを抵抗なく取り入れる。
それでも日本の支部道場生そんなロシヤの相手を向こうにまわしてよく頑張った。
観戦していて感心した。
郷田師範もそろそろ他流派を招待してもいいのではないかと進言していた。
9月11日
いつ頃からだろうか、朝の目覚めが早くなった。
時々早朝の5時ごろに起きてしまうことがある。
郷田兄が「早寝早起きは3文の徳?」などと言っているが、ようするに我々はそれだけ歳を取ったということである。
それでも3文の徳かどうかわからないが、早起きは気持ちが良いというか、気が澄んだように感じられるのは確かである。特に晴れた日は清々しい。
まだ残暑が残っているが、朝夕の空気はなんとなく涼しく感じる。
ステラもハナも真夏の時より動きがシャープになっている。
朝の散歩スタートすると二匹とも私をどんどん引っ張って歩く。
9月12日 審査、講習会のためサンフランシスコに出発である。
サンホゼの支部も出席する。毎年の行事になっている。
斎藤先生も福西先生も良い生徒を持っている。
指導しながら一緒に汗を流すのは気合が入るし、気持ちがいい。 続きを読む